ささやかな一歩

 1980年代の米国はまさに現在の日本とまったく同じ状況にあった。おもちゃの自動車だ、と思っていたものが、いつの間にか巨大な競走相手となって目の前に立ちふさがったのだ。テレビやVTRなど、自らが発明した電器機械はいつの間にか日本製に置き換わっている。高品質テレビの製造で超優良会社と言われていた「ゼニス」も潰れてしまう。まさに米国の危機であった。街にはホームレスが溢れ、ニューヨークの地下鉄は無秩序の場と化した。

 米国民は一人一人が自己を主張し、結果として誠に傲慢な国であるが、危機に際しては一致協力する。この一致協力した結果、彼らがプロデュースしたのが、「情報化時代」である。それは日本のハード力に対する挑戦であった。ハードとソフトの下部機構と位置づけ、付加価値のコペルニクス的転換を図ったのである。この魅力あふれるローレライの魔女のもとに人々は寄せつけられたのであった。しかし、このコンセプトのなかには、いわば、自縛自縄のトゲがあることに人々は気づかなかった。それはそのコンセプト自身がかつてない異様な速度でメタモルフォーズ(変容)するということだ。今日のそれは明日のソレではない。否、現在のソレすら次の瞬間にはほかのものに変容している。

 そんなものを過去の遺物であるキャッチアップ思想のもとに追っかけてみたところで、蜃気楼を追っかけるようなものだ。追っかけたと思えばそれだけ遠のく。過去1年の惨憺たる結果がそのことを如実に物語っている。構造改革なんてなにも進んではいないのである。要は米国がどうしている、ということを百万遍唱えてみても、何もできはしない。ささやかでも、自分自身で考えるところから始めることだ。ささやかな一歩。それだ!!

(福井県・今庄にて)