ソフトウェアの価値を訴えて、創業間もない弱小企業が集まって業界づくりに熱中した1960年代後半、そして年間売上高14兆6000億円にまで拡大した現在の情報サービス産業。40年間のビフォー・アフターは、「美しい産業」の志に見合ったものなのか。SIerを自称する大手ITサービス会社は、この間に何を獲得し、何を失ったのか。昨年11月、「産業形成への貢献」でITサービス産業界で2人目となる旭日中綬章を受けた業界の生き字引・丸森隆吾氏(71)にインタビューした。(佃均(ジャーナリスト)●取材/文)

易きに流れる体質こそ問題

■夢を食べていた時代

 東京・新中野の構造計画研究所本社新館9階に「服部記念室」がある。同社の創業者であり、ソフトウェア産業の基盤形成に尽力し、道半ばでたおれた服部正氏の志を継承するため、同氏の執務室を当時のまま保存している。ソフト業界関係者にとっては、“聖地”といっていい。毎年1月、ここで偲ぶ会が催されていたが、没後25年の今年を最後に散会となった。

 「服部さんの遺志は、業界がここまで大きくなったことで一部が実現した。やり残していることは山ほどあるが、それは若い世代に委ねよう」

 ソフトウェア産業の創生期、服部氏と行動をともにした丸森隆吾氏は語る。昨年秋、実兄で七十七銀行会長の仲吾氏とともに旭日中綬章を受けたとき、「この勲章は本来なら服部さんが受けるべきものだった」と口にするほど、服部氏に心酔していた時期があった。

 その立場でITサービス産業の現状をみたとき、「規模は大きくなったが、以前と比べると活力がない。知識集約産業に向けて技術者が地道な努力を積み重ねることの努力が報われる夢を、経営者が語ることがなくなり、全体が易きに流れているように思えてならない」と嘆く。

 易きに流れるとは、株式上場の創業者利得を求めてマネーゲームに走り、あるいは要員を集めて人月単価で派遣する業態を指す。現在の姿は自分たちが業界づくりに奔走した40年前の志と異なってしまったと言いたいのに違いない。

 「株式公開会社が250社を超えたというのは隔世の感がある。しかし経営者は数字に一喜一憂し、その一方でコンプライアンス、内部統制、情報管理、プロジェクト管理といった課題に追われているようにみえる。数字の向こうに何があるのか」

 丸森氏が設立したソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ(SRA)は、現在は「SRAホールディングス」と社名を変え、東証1部に上場するまでに発展した。

 「沖電気を辞めて起業したころは、日本中に受託計算センターが100社ほど、プログラムの開発を業とする企業は片手で足りた。ソフトといえば、ソフトクリームと勘違いされた時代、会社が成り立つ見通しもなかった。夢を食べていたようなものだった」

 同氏が述懐する「夢を食べていた」は、むろん比喩で、実際は沖電気工業や同社が提携していた日本ユニバック(現日本ユニシス)の取引先の仕事をした。ただし社員全員が取り組むほどの量がなかった。そんなとき、手空きの社員たちがやっていたのは「プログラムを読む」ことだった。


■プログラムを読む会

 「他の人が作ったプログラムを読んで、全員でああでもない、こうでもないとやるわけです。自分だったらこう作るとか、なぜここにこういうコードがなければならないのかを議論する。それがいい勉強になった。SRAは創業当初から週休2日制だったので、やがてそれが毎週土曜日の定例会となっていった」

 創業七人衆の1人で、現在は東京・千石に本社を置くオープンテクノロジーズの三田守久社長(元SRA専務)は振り返る。ソースコードを読むこと、読むに耐えるきれいな(ロジックが分かりやすい)プログラムを書くことが、現在も同社の技術風土に引き継がれている。またそのことが1981年、日本で最初にディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)のスーパーミニコン「VAX11/780」を導入し、LANによるソフトウェア開発環境を構築することにつながった。

 「あのころのVAX11/780の値段はSRAの1年分の利益に相当したんじゃないか。会社がつぶれるか、大きく飛躍するか、伸るか反るかの賭けみたいなものだった」

 一方、経営者である丸森氏は、ソフト業界で“師”と仰ぐ服部氏と行動をともにしていた。1970年6月発足のソフトウェア産業振興協会を準備し、服部氏の急逝後、情報サービス産業協会の副会長として業界の顔となった。

 「ソフトウェアはハードウェアの“おまけ”じゃなくて、独立した価値のある知的生産物なんだとユーザー企業に理解してもらうこと、ソフトウェアの開発でユーザー企業から適正な対価を得ることに走り回った」

 当時、通産省電子政策課長だった平松守彦氏、情報産業振興議員連盟を通じて知り合った代議士1年目の小渕恵三氏(元首相)、情報処理振興課の平職員だった町村信孝氏(元外相、現自民党清和政策研究会会長)、などと親しく交流したのも、「ソフトウェアの価値」を理解してもらいたいためだった。

■ソフトウェアの価値

 転機となったのは野村證券からダイレクトにシステム開発を受注したこと。日本ユニバックの営業課長だった佐藤雄二朗氏(のちアルゴ21を創業、元情報サービス産業協会会長)の紹介があったにせよ、天下の野村證券が海のものとも山のものとも知れないソフト会社と直接契約を結ぶなど、あり得ないことだった。プログラムのソースコードを読んで、最適なロジックを組む技術者がいるということが高く評価された結果だった。

 それを裏づけていたのは、社内で毎週土曜日に行われていた「プログラムを読む会」だった。そこで技術をマスターしたエンジニアが、プログラミング技術に関する書籍を出版したり、論文を学会に発表していた。1行当たりいくらでプログラムをコーディングする時間への対価でなく、ロジックを組み立てる技術に野村證券は対価を支払った。これ以後、「技術のSRA」が看板になった。

 「この業界では、しばしば人材がすべてだと言う。人財という言葉も使われる。そう言いながら、その人材を派遣し、技術習得と人間形成の機会を与えていない部分がなきにしもあらず。自分はもう第一線を離れたが、だからこそよく見えることがある。これでいいのか、と問いたい」

 丸森氏のこの問いかけに、現在の業界はどう答えるのか。