旅の蜃気楼

アラン・チューリング

2003/12/08 15:38

週刊BCN 2003年12月08日vol.1018掲載

▼「人間は機械か」。「人間は機械と違うのであろうか。違うとすれば、それはどこか」。この問いを一生考え続けた偉人がいる。イギリスの数学者、アラン・チューリングだ。BCNに「大航海時代」を長期連載中の水野博之先生の講話を聴いていると、必ずこのチューリングの名前が登場する。「偉い、チューリングは偉い。大切なのはアラン・チューリングの思考は今も呪文のように科学者や工学者を揺るがし続けている、ということなんだよ」。水野先生はいつも首を右に少し傾け、揺らしながら広島訛りの関西弁で、熱弁を振るう。

▼「問い」があって、その「解」が見つからない時、思考は袋小路に入る。そこを突き抜けたいのだが、堂々巡りをする。その問いがあるから、人間はサルとは違う。だから人間である『森を出たサルはどこへ行くのか』(セルバ出版)、水野博之先生の近著である。副題は、人生の思索ノートとある。こだわりのいくつかを紹介すると、人間とは、いったい何者なのか。人間の性は善なのか悪なのか。はたまた、科学と宗教は相容れるのか。人間は古来から思索のなかから科学を生み、科学が文明を創る。人間はどこまで文明を許容するのか。そのひとつの尺度は「人間の寿命」だ。人間の平均寿命が延びている限り、われわれの文明は、われわれに全体としてうまく働いているといえる。

▼原子爆弾はどうだろうか。これは「禁断の木の実」と指摘する。広島で生まれ育った水野先生は、肉親が被爆者だ。そこで、「心とは何ぞや」が登場する。この問いにはなかなか答えられそうにないが、この大命題は、宗教的にも、科学的にも多くのアプローチがなされている。チューリングは「マインド(心)」と題した論文を書いている。人間は考えるが、機械は考えることができるか、と問う。解は、「機械は人間と同じく考えることができる」だ。彼はチューリング・マシンを考えた。これがコンピュータの原型である。どうぞ、お読みください。(本郷発・笠間 直)
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