【熊野発】熊野古道をゆっくり歩くと、周囲を取り囲む山々に、吸い込まれるような感じになる。自然との同化といっていいのだろうか。歩きながらいろんなことを考えたり、まったく無心に歩いていたり、ちょっとした草花に感動したりする。吉野川の中洲に熊野本宮の旧社殿の跡地がある。ここを大斎場(おおゆのはら)と呼ぶ。まだ明るい夕暮れの景色の中に大鳥居がそびえている。和歌山県田辺市の子供たちが大斎場で、一遍上人の悟りの生涯を演じた。この演劇を見るきっかけは前号に書いた。

▼一遍上人と熊野権現の触れ合いは絵巻物になっている。演目は2時間という長いものだ。演者は子供たちだが、主人公の一遍上人は地元高校演劇部OBの24歳になる青年が演じた。暗い大斎場の杜で劇は進行する。スポットライトが舞台を浮かび上がらせる。おや、いつの間にか見入っている自分に気づく。一遍は高野山に参籠してから、「南無阿弥陀仏」のお札を施しながら、熊野本宮にたどり着く。

▼一遍は人々に施しを与えながら遊行(ゆぎょう)する。その行為を彼は「当たり前のことをしているに過ぎない」と言い続ける。ところが、自分の心の中にも葛藤が見え隠れする。その心の葛藤を山伏姿の子供の天狗が揺さぶる。空腹でひもじい人がいると、残りわずかな餅を分け与える。その時、「ひもじいだろう。ひもじいだろう」と揺さぶりをかける。人であれば当然の葛藤だ。動じない振りをする。が、動じている。クライマックスは豪雨で荒れた吉野川でその天狗がおぼれるシーンだ。一遍は逡巡して後に助ける。天狗は息を吹き返し、一遍は悟りを開いた。「信不信を選ばず浄不浄を嫌わずお札配るべし(信不信があろうとなかろうと、心から浄らかであろうと、だれかれの区別なく、すべての人を救済しなさい)」との神託を受ける。それで迷いのない施しができるようになった。これが筋だ。大斎場がそうさせたのか、不思議に引き込まれた。

▼大鳥居を出て、あぜ道に入った。狭いから隣のおばあさんたちの話し声が聞こえてくる。「半信半疑で見に来たんだけど、良かったな」。人は素直になると、感動する力が湧いてくると思った。(BCN社長・奥田喜久男)