旅の蜃気楼

焼け野原に電信柱を立てた通信会社

2012/09/20 19:47

週刊BCN 2012年09月17日vol.1448掲載

【世田谷発】とある住所録をパラパラとめくった。昭和13年11月末現在の『日本電気株式会社住所録』だ。今ではあまり知られていないが、日本電気は日本で最初の外資系企業だ。そのせいか住所録はアルファベット順となっている。「従業員数は2000人ほどだったようですよ」と伝聞調で語るのは、世田谷区に本社を置く日興通信の社長・鈴木範夫さん。「これ、私のお宝です。どうぞご覧ください」と言って古びた小冊子を目の前に置いた。

▼飛び上がるほど驚いた。何だかとても貴重な古文書に出会った感じだ。パラパラとめくって、「S」の頁で手が止まる。「この鈴木政雄が私の祖父です」「この方ですか、創業者は」「そうです。祖父から父の功一へ、そして私へと続きます」。日興通信の創業は昭和22年6月だ。創業者の鈴木政雄氏は日本電気で働いている間に召集を受けて戦地へ出向く。戦地から引き上げると、東京は焼け野原だった。住所録によると、住まいは大森区上池上町とある。その時、池上から眺めた関東平野はどこまで見渡せたのだろうか。戦後の窮地に日本電気は希望退職者を募った。退職金を手にした鈴木政雄氏はそれを元手に会社を起こした。その時の思いを三代目の範夫さんが語る。

▼「焼け野原の日本を日本電気で身につけた通信の技術で復興する。これを使命とする会社を起こし、社名を日興通信とする」。創業者のたぎる思いが伝わる。独立して日本電気の代理店となった。創業者の長男で二代目の功一さんも創業間もない会社を支えるために大学を出てすぐに家業に就いた。親子で電信柱を担いで、焼け野原に立てた。日興通信の社業は時代の変遷を色濃く反映している。電話の政雄、パソコンの功一、そして三代目へと続く。事業の継続は創業の思いを今に伝える証だ。その思いは、今だからこそ輝いて見える。(BCN社長・奥田喜久男)

日興通信の創業者の名前が載っている日本電気の社員名簿
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