「マックワールド エクスポ ボストン'89」初日の8月10日の夜、ボストン市内の展示会場からチャールズ川を挾んだ対岸のMIT（マサチューセッツエ科大学）の階段教室で、コンピュータの過去、現在を振り返り、今後のあるべき姿を、熱っぽく語っていた男がいる。男の名は、アラン・ケイ、アップルフェロー（副社長待遇の特別研究員）というよりも、「ダイナブック」という究極のラップトップの概念を考えだした人物として、いまでは伝説の人である。【米東部ボストン発BCN高田正純特派員】

　この男は、ややくたびれた感じの濃紺のポロシャツ姿で、首からメガネを細紐でつるし、ちょっとはにかんだような、同時に、いささか浮世離れしたムードをかもしつつ、スライドをつかいながら、講義を続けている。

　階段教室に集まったのは、MITの名誉教授とおぼしき年長者から、大学生までのおよそ200人。アラン・ケイが、今回のマックワールド・エクスポのシヨー第3日の基調報告をつとめることは、広報出版物にも書いてなかった。

　この特別講演のことは、シンガポールであったBCS（ボストン・コンピュータ・ソサエティー）のある幹部から聞き、出かけて行った。

　アラン・ケイは、BCSの選んだ今年の功労者賞を授賞した記念講演をおこなっていたのである。彼の話は、いきつもどりつ、いろいろなテーマに触れた。Smalltalk、マッキントッシュ、スティーブ・ジョブズなど。

　もちろん、彼の名を高めたダイナブック構想を考えたころの思い出話が中心で、この講演をひとことでいうと、「コンピュータの歴史と私」という趣だった。米専門誌「コンピュータ」1977年3月号のなかで、アラン・ケイは、こう書いていた。

「誰もが情報伝達のツールとして、どこでも使える『Dynabook』というノートブックサイズのパーソナル・ダイナミック・メディアにいたるデザイン構想」と述べ、夢を具体的に語っていた。この目的のために、彼は「暫定的なDynabook」にのせるSmalltalkという一言語を考えた。

私はサイエンティスト

「クリエイティブな思考のためのダイナミックなメディア、それがダイナブック」というわけである。

　彼は、この論文の結論のところで、ビジネスマンがブリーフケースを持ち歩くように、ダイナブックを持ち歩き、情報伝達に役立てる、という夢を語っている。

　コンピュータとは、大きな空調のある部屋のなかで、滝のようなケーブルにとりまかれた巨大な存在、という状況のなかで、アラン・ケイのコンセプトは、たいへんユニークだったであろう。

　この論文を書いてから10年以上たったいま、彼は、マックワールド・ボストンの会場近くで、自分の基調報告の2日前に、コンピュータ関係者に囲まれながら、話を続けている。彼の話は、音楽から哲学、そして科学や工学へと、多岐にわたった。彼のユーモアにつられ、会場にはたえず笑い声が渦巻いていた。

　「私はサイエンティスト（科学者）であって、エンジニアではない」「ジョン・スカリー（アップル会長）は5年遅れている」などという発言もとびだした彼は、これからのコンピュータはいかなるものになるかを熱をこめて語った。講演は終わった。

　1分くらい続いたかと思われるほど長い、惜しみない拍手のあと、たくさんの聴衆が演壇を囲んだ。議論の続き、反論などのやりとりが、ひとしきりおこなわれたあと、筆者は、「これはほんの冗談だが」、といいながら、取材用に持っていった東芝の新製品J-3100SS DynaBookを彼に差し出し、「あなたがダイナブック構想を抱いてから10年余りして、ここに現実のダイナブックがある」と言った。周りの聴衆は、ほほう、という感じで、のぞきこんだ。

　筆者は、DynaBookのスイッチを入れ、漢字のフォントを見せた。彼は、黙ったまま、なにもいわずに、見入っていたが、「欲しいな」とつぶやき、「置いていけよ」といった。どうやら、筆者を東芝の人間とカン違いしているようだった。「ぼくは東芝マンじゃないですよ」「そうか、すまんすまん」と彼。「東芝から届いていないのですか」「届いてない」「では、東京に戻ったら、東芝にいまのやりとりを伝えましょう」、と筆者は言った。

　ここで、筆者は、持っていた銀色の油性サインペンを彼に渡し、ラップトップの蓋にサインしてくれないか、と頼んだ。「TO TAKADA/ALAN KAY」周りの誰かが、「おい、このダイナブックを東芝に見せたら、10台あげるから、それと交換してくれ、といわれるぜ」と言った。どっと笑い声が沸いた。

反応も瞬時に

　筆者は、アラン・ケイと東芝DynaBookのエピソードはこれで終わりかと思っていたが、そうではなかった。帰国後、東芝の幹部のひとりと電話しているとき、こんな話を聞いた。アラン・ケイは、このあと友人のニコラス・ネグロポンテとMITのメディアラボの所長に連絡し、「あのDynaBookを1台欲しい」と言ったらしい。

　ネグロポンテは、この東芝の幹部に電子メールを送り、「あのDynaBookはいい。2台くれ」と言ったという。東芝が2台贈ったのはいうまでもない。というわけで、いまの電子的情報流通の世界はたいへん狭い。

　筆者は、こういうわけで、アラン・ケイとニコラス・ネグロポンテの2人に、「欲しい欲しい、いますぐ欲しい」という気持ちをいだかせたらしい。この希望というかリクエストは、まわりまわってメーカーのところまで、あっというまに伝わった。それも、電子的な超スピードで―。