富士通の山本正已氏が6月22日付で社長を退き、代表権のある会長に就く。2010年、リーマン・ショックから立ち直ったとは言い難い経済環境、元社長・野副州旦氏との訴訟問題……。そんな逆風のなかでの社長就任。さらに東日本大震災も発生した激動の約5年。山本氏は、富士通をどう変えたか。「業績」「構造改革」そして「発言」で振り返る。
業績
厳しかった前半、後半には勢い
山本氏が社長に就任したのは、2010年4月1日で、10年度(11年3月期)の期首からになる。この期間をまず基本的な経営指標の数字で振り返ると、売上高は10年度から12年度までの3期は前年度を下回って下降線をたどるも、13年度に回復。14年度はそれを超える計画だ。営業利益もほぼ同じ傾向にある。売上高・営業利益ともに、14年度は山本氏が社長に就いたなかで過去最高を狙う。
一方、海外売上高比率には大きな変動はみられない。山本体制前の09年度と、14年度(計画)を比べると、0.9ポイントの上昇の38.8%にとどまる見込み。ちなみに、NECの海外売上高比率は18.7%(14年3月期)、日立製作所は45.0%(同)、東芝は58.0%(同)。日立と東芝は、富士通が手がけていないIT以外のビジネスを海外で手がけているので、単純比較はできないが、グローバルビジネスの強化を掲げてIBMやヒューレット・パッカード(HP)、アクセンチュアと世界のステージで戦うことを宣言している富士通にしては、多少物足りない。
構造改革
半導体、携帯電話事業の再編を実行
構造改革という言葉をこれまで何度も口にしてきた山本氏。事業の効率化とシナジーの追求、不採算事業部門の整理を軸に、さまざまな事業部門の再編に動いてきた。田中達也次期社長との共同会見で、山本氏は「構造改革に終わりはない。ただ、次の成長に向けた礎を築くことはできた」と振り返り、一定の成果を上げたことを感じていたようだ。
このおよそ5年で行った主な組織再編を上の表にまとめた。動きが慌ただしかったのは、半導体と携帯電話関連事業。収益が悪化した事業部門のてこ入れは迅速だった。そして、SE子会社の統合も大きなトピックだ。東日本と西日本で分け、両地域それぞれに3000人以上のSEを保有するソフト会社を誕生させて効率化を図った。地域SE会社の統合は、10年くらい前から業界でうわさが絶えなかった。市場でのバッティングや取り扱い製品の重複といった非効率なところが表面化し、きっと大きな懸念事項になっていたのだろう。
東西の地域SE会社のほか、富士通マーケティング(FJM)を発足させ、パートナーとの協業事業をFJMに移管したのは、パートナービジネスを左右する大きな決断だった。
一段落したようにみえる構造改革。今後注目したいのは、PCと携帯電話だ。山本氏は「基幹系から端末まで、ハードからソフト、サービスまで、ユーザーが求める総合ITソリューションを提供するためのポートフォリオをもっているのが富士通の強み」と語り、パソコンや携帯電話事業を手放すことを常に強く否定してきた。この戦略を田中氏が継続するのか。記者会見では「まだ白紙。これからしっかりと考えたい」と答えた。
発言
どんな状況でも強気
『週刊BCN』では、毎年年末に山本氏にインタビューしてきた。「経済は、落ち込む時もあれば上昇する時もある。落ち続けることはない」(11年末)。「政府・経済界ともに停滞感がある。日本全体を富士通が変えるくらいの意気込みでいく」(12年末)。「景気の『気』は気合の『気』。よくなると思わなければ、景気は決してよくはならない」(13年末)。これらの抜粋コメントからわかるように、どんな状況にあっても「強気」で、威勢がよかった。経済環境は良好といえず、未曾有の大災害も経験し、明るい兆しがみえ始めたのは、社長在任の後半になってからだ。それでも時には楽観的とも思えるほど、常に強気な姿勢。それが、この5年間の富士通を支えたのかもしれない。(木村剛士)