今年5月26日、民法の一部を改正する法律案が国会で可決成立した。6月2日公布、3年以内に施行される。このなかで、契約に関する条文が1896年の民法制定以来、初めて抜本的に改正された。当然、その影響は情報サービスの契約のあり方にも波及する。システム開発の何が変わり、何が変わらないのか。ITベンダーがいま知っておくべきことを解説する。(取材・文/本多和幸)
Chapter 1
120年ぶりの改正ってどういうこと? 情報サービス産業の契約慣行をおさらい
関係者が多すぎて
聖域になっていた債権法
取引契約などにかかわる法律の条文である民法の債権関係の規定(債権法)が、約120年ぶりに改正された。情報サービスの取引にも、当然ながらこの債権法が適用されるわけだが、法律に明るくないという人にはこの時点で大きな疑問が頭に浮かぶのではないだろうか。「情報サービス業の契約は、120年前の法律にもとづいて交わされていたの?」。
森・濱田松本法律事務所
飯田耕一郎
弁護士
その答えに言及する前に、まずはなぜいままで債権法は改正されなかったのか、その背景を探ってみよう。ITシステム開発をめぐる紛争解決などで豊富な経験をもつ森・濱田松本法律事務所の飯田耕一郎弁護士は、「民法というのは、法律界や霞が関のお役所では半ば聖域のようになっている。かかわる業界や関係者があまりに多すぎて、おいそれと改正はできないというのが基本的な位置づけだ」と説明する。
それでも、民法のなかの婚姻や相続に関する規定(家族法)などについては、条文に書いてある日本語と正反対の常識が世の中に浸透するなど、時代の変化により現実とあまりにも合っていない内容になってしまうケースが頻発し、パーツごとに随時改正はされてきたという。
しかし債権法は事情が違う、と飯田弁護士は話す。「利害関係者が幅広く存在し、それらが複雑に絡み合っている。しがらみが多すぎて法改正がし難かった。解釈で乗り越えられるケースも多く、何より、民法の規定とは合わない内容でも、当事者同士が個別の契約を定めておけばそちらが優先されるため問題なかったという事情もある」。
モデル契約が補完的な
役割を果たしてきた
日本総合研究所
大谷和子
執行役員法務部長
この飯田弁護士のコメントからもわかるように、民法、とくに債権法はほとんどの規定が任意規定なので、個別契約で民法の内容と違うことを定めれば、そちらが優先される。情報サービスの取引においても、個別契約が民法を補完するかたちで実際のビジネスに適用されてきたのだ。これが最初の疑問の答えだ。日本総合研究所の大谷和子・執行役員法務部長は、「民法典に定まっている契約に関する事柄というのは非常に少ない。だから、経済産業省やJISAは、システム開発の特性に配慮して、変更管理の手続きなど、債権法にはない部分も補って、プロセス管理ができるような“モデル契約書”を整備してきた」と話す。ITベンダーは、これらのモデル契約を活用するなどして、ビジネスの実態にあった個別契約を結ぼうと腐心してきた。
今回の債権法改正のコンセプトは、大きく二つある。「120年前とは大きく変わった社会・経済に対応させる内容にすること」と、「一般にわかりやすいものとすべく、実務で通用している基本的なルールを適切に明文化すること」だ(改正の概要は表を参照)。情報サービスの業界団体も、情報サービス産業協会(JISA)を中心に、情報サービス取引の特性を法改正に反映させるべく、国に対して地道かつ積極的な提言活動を行ってきたという。大谷氏は、ここで主導的な役割を果たしてきた。
しかし、結果として、今回の改正は、これまでの判例をそのまま条文に落とし込んだり、事実上いまは適用可能性がないとされている条文を削除したりというレベルにとどまったのが実態だ。飯田弁護士は、「例えばJISAの立場からするとユーザーの責任にもう少し言及してほしかったということになるだろうが、ユーザーからみれば反対になるわけで、そのせめぎ合いを全部の項目でやっていたらなかなか結論が出ないという事情もあっただろう。結局、最大公約数をとるかたちにしたようにみえる」と話す。また、大谷氏も、「こちらが期待していたような改正とは少し違ったかたちになった」と率直な感想を述べる。改正後の債権法を過去の判例に適用してみたとして、裁判の結果がひっくり返るようなケースは極めて稀だというのは、飯田弁護士、大谷氏とも共通の見解であり、情報サービス業にドラスティックな価値観の転換をもたらすわけではないということになるだろう。
それでも飯田弁護士は、「長い間改正されていなかったものが改正されたことはパラダイムシフトだ」と評価する。そして、ITベンダーが留意しなければならないポイントはやはり存在する。次頁では、法改正が情報サービス業にもたらす影響を細かくみていく。
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