ビジネスエンジニアリング(B-EN-G)は製造業を主な営業対象として、SCM(サプライチェーンマネジメント)の自社パッケージ製品販売やSAP製品のSIでエンタープライズIT市場における独自の立ち位置を築いてきた。昨年10月の社名変更に続き、今年4月にはトップも交代。同社のビジネスが新たな展開を迎えていることをうかがわせる。社長に就いたのは、今や同社の金看板とも言えるSCMシステム「mcframe」事業を1990年代半ばの企画段階からけん引してきた羽田雅一氏だ。
スクラッチ開発の課題が
mcframeを生んだ
――経営幹部としての羽田さんしか存じ上げなかったのですが、改めて経歴を拝見すると、プログラマー/SEとして仕事を始められたのですね。
東洋エンジニアリングに入社して、当社の前身にあたる産業システム事業本部で仕事を始めたのは1987年です。当時、(元プロ野球選手・監督の)野村克也さんが自身の野球人生を「生涯一捕手」と表現して話題になったんですが、私も「生涯一プログラマー」を志していました。でも、野村さんは一捕手にとどまらない活躍をされましたね。
――東洋エンジでそういう人材は珍しかったのでは。
プログラミングに対する見方も今とは違っていましたから、ギークなヤバイ奴というような見られ方はしていたでしょうね。キャリアパスとしてはコンサルタントやプロジェクトマネージャーを経験して管理職になっていくというのが社内でも王道でしたが、そういうのはジジイの仕事だと思っていました(笑)。私は技術にこだわってずっとプログラミングをやっていきたいなと思っていましたから。それで、入社してから10年くらいは製造業向けシステムのスクラッチ開発をやっていました。
――羽田さんと言えば「ミスターmcframe」という印象です。改めてmcframe誕生の経緯を聞かせていただけますか。
mcframeのリリースは96年のことです。スクラッチ開発は楽しかったんですけど、自分としてはすごくいいシステムをつくってお客様に喜んでもらえたとしても、毎回つくっては捨てているみたいな感覚が大きくなっていたんですね。せっかくいいものをつくったんだから、もっと他の人にも使ってほしいという思いが出てきた。
ちょうどその頃、ハードウェアのパワーも上がってきて、オブジェクト指向による開発、つまりソフトウェアの部品化という考え方が現実的になりました。あるお客様の案件でオブジェクト指向の考え方を取り入れたところ、非常に短期間でいいものができたんです。それで、お客様に許可をいただいて、もう少し機能を汎用化して「MCFrame」(現在の「mcframe 7」)という名前で売り出したわけです。
――当時既に東洋エンジの産業システム事業本部はSAP ERPの導入支援を手掛けていました。それでは不十分だったわけですね。
SAPはいいシステムで、ベストプラクティスで標準化していくところに強みがあります。一方で日本の製造業はサプライチェーンのところで改善・工夫をして勝ってきている企業が多い。そういうノウハウを生かせるように、部品化の技術を使って、SAPのパッケージよりも柔軟な仕組みを持つ製品をつくろうと思ったんですね。
売り出したら、同じような課題を感じていたSIerが何社かいらっしゃって、すぐにパートナーになってくれました。かなり早い時期から、パートナーエコシステムの力で拡大するビジネスモデルが出来上がっていました。
――mcframeをはじめとする自社プロダクトのビジネスと関わりが強い羽田さんが社長に就任されて、B-EN-Gは“メーカー”としての色をより濃くしていくのでしょうか。
それは違いますね。プロダクト事業とSAPのSIなどのソリューション事業は両輪です。極論を言えば、SAPだろうとmcframeだろうとお客様の役に立つならどっちでもいいんです。
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