コンテンツ制作を支える「Creative Cloud」、デジタルマーケティングの統合ソリューションである「Experience Cloud」、そして各業務のデジタル化に貢献する「Document Cloud」。アドビは三つのクラウドを武器に、企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)支援を本格化させている。今年4月に社長に就任した神谷知信氏が掲げるビジョンは「心、おどる、デジタル」。クリエイティビティこそがDXに欠かせない要素であり、社会のクリエイティビティを刺激することがアドビの存在意義であるという自負がある。ユーザーがわくわくできる体験を提供することで世界を変えていく。ビジョン実現へ、新たなトップが進む道は。
顧客接点のデジタル化 コロナ禍で重要度増す
――就任から半年が経とうとしていますが、社長としての業務はスムーズにスタートできたでしょうか。
アドビ(での社歴は)は7年目なので、あらためて勉強しなおすようなこともなく、想定通りだったというところです。ただ、企業のデジタルへの期待値や投資が増している中で、機会損失をしていないかという不安は大きいです。やはり、企業がアドビに抱くイメージはPDFなどがまだ根強く、企業のDXを支援したり、実現したりするイメージが定着していない。それも想定通りでしたが、実際、社長になってみて「そうなんだな」と日々感じています。
――新型コロナ禍以降、アドビの事業環境はどう変わったんでしょうか。
市場で言えば、デジタルというものが、ITのバックエンドプロセスだけでなく、企業とお客様をより密接につなぎ、企業が提供したいサービスを実現するための必須ツールになったことでしょうか。(新型コロナ禍で)お店に行けなくなり、企業がどのようにしてお客様とつながってビジネスを継続していくかを考える上で、デジタルタッチポイント(顧客接点)の重要性はますます高まっている実感があります。日本は流通が強いマーケットで、アメリカのように物理的に移動しなければならないということもありませんが、コロナ禍で多くのメーカーが直接ユーザーにデジタルを通じて環境をつくっていく流れが強まっています。
それから、これはアドビにとって一番の追い風と言っても過言ではないですが、「紙をどうデジタル化するか」という点が特に日本では加速したと思います。ずっと課題として指摘されながらも、デジタル化に至っていない企業も多かったですが、リモートワークが広がり、出社しなければならない理由の大部分が紙に由来するということで「すぐに紙をデジタル化したい」というプロジェクトが非常に増えました。これはコロナ禍前は見られなかった現象です。
コンテンツとデータ連携がDXの肝に
――環境の大きな変化もあり、アドビでは企業のDXを支援していく姿勢を前面に示されています。特にデジタルエクスペリエンス面での支援に力を入れている印象があります。
どこに力を入れていると言うのは難しいですが、6月の事業戦略説明会ではビジョンとして「心、おどる、デジタル」を打ち出しました。デジタルが人々の生活をよりよくし、楽しく、わくわくする体験を提供したいという思いを込めました。非常に幅が広い企業DXの中で、アドビはお客様と企業の接点の部分におけるDXにフォーカスしています。お客様が企業と接点を持った際に幸せになれる。それが「心、おどる、デジタル」。その実現にはコンテンツが必要です。魅力的なコンテンツをパーソナライズした形、属性にあった形で提供できるかが重要です。DXはコンテンツとデータが肝であり、アドビはその両方を持っています。
カスタマージャーニーでは、お客様が検索してウェブサイトにたどり着き、体験したり、製品を購入したりします。従来のデジタルマーケティングはそこまでで、現在では(体験や購入後に)お客様をどうハッピーにさせて、継続していただくかが、特にデジタルの世界では重要になっています。購入後の興味や課題は人によって全く異なります。お客様にフィットした情報を提供し、企業とカスタマーをどうエンゲージするかが重要です。これまで実店舗での接客や対面営業で構築していたカスタマーロイヤリティーをいかにデジタルで担保するか。DXではその点での引き合いが多いですね。
――「Photoshop」や「Illustrator」に代表されるデジタルメディアと、デジタルエクスペリエンスの領域は離れている印象があります。
コンテンツとデータの連携がないと顧客体験の向上はデジタル上では実現しません。両方とも重要ですし、プロダクト上の連携も始まっています。例えば、ユーザーが個別の趣向に合わせたコンテンツを作るとします。同じテンプレートを使うとしても、色や背景を変えてパターン違いを大量に作る。その際、わざわざ写真を撮りにいかなくても、アドビストックを使えば一度に作れますし、そのパターンに適したお客様に届けるために「Experience Cloud」が使えます。こういう利用形態はより拡大していくでしょう。
――クラウドを核とするDX支援と聞くと、顧客は大手が中心となるのでしょうか。
これがそうとも言えず、業種業態に関係なく幅広く相談を受けています。先日は関西でねじや工具を作っている中堅企業から「ユーザーとの接点を作りたい」との話がありました。大学からのDXの相談も増えています。
30年続くパートナーWin-Winの関係に
――国内でDX支援を推進するには、SIerとの連携も重要になってきます。パートナーエコシステムの考え方をおたずねします。
事業を進める上でパートナーは必要不可欠。デジタルメディアもそうですが、DXの場合はどこから手を付けていいか分からないという相談があり、それがアドビにくる場合もあれば、付き合いのあるパートナーにいくケースもあります。上流でのAs-Is設計(現状業務の整理・分析)からできるエージェンシーとは深い付き合いがあり、その後の導入・運用フェーズではSIerさんの力を借りています。我々も何千人と社員がいるわけではないので、多くのプロジェクトで運用をしてもらっているのが実情です。
DXは業種業態を問わず、幅広く展開され、アドビが全てを直接手掛けられる世界ではありません。業種業態や会社の規模、地域性によってパートナーは変わってくるので、アドビとしては幅広いエンドユーザーとの付き合いがあるパートナーと連携を深めていきたいですね。
日本での事業は来年で30年になります。当時から付き合っているパートナーも多く、アプリケーションのサブスクリクションへの移行を進める前とも変わっていません。ついてきてもらってWin-Winとなり、ほとんどのパートナーが、アドビとの取引では最高益となっています。最初は文句も言われましたが(笑)、非常に良好な関係を続けています。
――従業員のマネジメントで心掛けていることはありますか。
リモートワークとなり、社員の健康に気を配っていますね。社員の99%はオフィスに来られていないので、コミュニケーションの頻度も気を遣っています。前は「オフィスに帰ってきたい」という声も多かったのですが、今ではほとんどが「このままでいい」と(笑)。慣れてきたのだと思いますが、会社の存在とは何かと感じます。アドビは中途採用が多く、オフィスで会社のカルチャーを身に付けていく面もありましたが、それがなくなり、どうやって企業カルチャーを理解してもらうかがチャレンジすべき課題です。幸い、アドビにはクリエイティブな人が多く、試行錯誤しながら、リモートでもコミュニケーションを活発に行っています。
――今後の目標を教えてください。
「心、おどる、デジタル」を実現し、デジタルで世の中の人の生活を変える。その根底にあるのはクリエイティビティです。これからの社会でもクリエイティビティが求められる。我々はそこが一番得意ですので、クリエイティビティを確保し、きっちりマーケットでの普及を進めつつ、デジタルで、わくわくする社会づくりを進めていきます。それをやる上で三つのクラウドが別々に動いていては実現できません。会社としても部門こそ分かれていますが、ワンチームとして、顧客の方を向いて事業していくことにフォーカスしていきます。
Favorite Goods
日本AMD時代に赴任していたシンガポールで、長男の誕生を記念して購入したオフィチーネ・パネライの腕時計。長男が20歳を迎えたときにプレゼントしようと考えており「それまで仕事を頑張ろう」と気持ちを奮い立たせてくれる存在となっている。
眼光紙背 ~取材を終えて~
日々の準備を怠らず、最高の波を待つ
「サーフィンと仕事は似ていますね」
取材が趣味の話に及ぶと、神谷社長は目を輝かせながらこう話した。20年以上にわたってマリンスポーツを楽しみ、ストレスがたまると海へ出かけているそうだ。
サーフィンは波に乗る場面だけが目立つスポーツだが、実は波に乗るまでのプロセスが非常に重要だ。自分の身体にあった板を選び、沖に出るために水をかく「パドリング」の動きを日々磨く。海に出ても、人気スポットであれば何十人ものライバルで一本の波を取り合うことになる。いい波に乗るためには、トレーニングだけでなく、サーファー同士の人間関係さえも影響してくるという。
結局のところ、サーフィンも仕事も「いい波」に乗るには「日ごろの積み重ね」が大切になる。普段からしっかりと準備していなければ、沖にすら出られないこともある。
企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)が加速し、市場はさながら大波うねる荒海の様相を呈している。一方、幾千のライバル企業も好機を逃すまいと眼光鋭くチャンスを待つ。どれだけ競合が多くとも、市場環境の変化が目まぐるしくとも、絶好の波が来るタイミングはある。日々の準備を怠らず、最良の瞬間を待つ。
プロフィール
神谷知信
(かみや とものぶ)
青山学院大学卒。1997年4月にボッシュ入社。その後、デルジャパン(現デル・テクノロジーズ)や日本AMD、ディーアンドエムホールディングス(現サウンドユナイテッド)などを経て、2014年10月からアドビ。デスクトップからクラウド、サブスクリプション化へとアドビのDXをリードし、デジタルメディア事業の製品や販売戦略を含む事業全体を統括。21年4月に社長就任。
会社紹介
写真、デザイン、ビデオ、Webなどのソフトウェア製品で世界トップクラスの地位を誇るソフトウェアメーカー米アドビの日本法人。1992年設立。従業員数は約600人。