米政府の“お達し”が衝撃に

　情報システムや通信環境のセキュリティ対策には欠かせなくなった暗号技術。機密情報の漏えい・改ざん防止に必須のこのテクノロジーに、米国発の変化が起きている。米政府機関がすでに広く利用されている暗号技術の安全性を問題視し、2010年末時点で特定の暗号技術を採用した製品の新規購入を控えることと、既存利用者にはそれ以外の暗号技術に移行するよう警告を出したのだ。これを暗号の「2010年問題」と呼ぶ。あくまで米国の話で日本では義務化でもなく、強制力も弱い。だが、日本の政府機関はこのお達しに則り、システムの調達条件に追加する方向性を示しているだけに、日本のITベンダーやユーザー企業も軽視できなくなる可能性が出てきた。

　電子署名をはじめ、電子入札、電子申請……。ユーザーには利用しているという感覚が乏しいかもしれないが、機密データをやりとりするさまざまなシステムの裏で、暗号技術は活躍している。暗号技術はデータを第三者に漏れないようにするため、正規ユーザーしか分からない形に情報を秘匿化するテクノロジーで、社会インフラといえるETC（料金自動収受システム）や電子マネーでも利用されている、情報化社会に必須のものだ。このテクノロジーに大きなインパクトを与えているのが「2010年問題」である。

　2010年問題とは、現在利用されている一部の暗号技術が解読される可能性があり、別の暗号に移行する必要性があるという事柄だ。開発当時には解読不可能とされた暗号も、技術者の調査研究成果や、暗号解読に必要な計算機（情報システム）の処理性能向上で、時が経てば状況は変わる。政府の暗号研究機関や研究者はそのたびに警鐘を鳴らし、新暗号への移行を促し“世代交代”を図ってきた。ただ、問題視されてきたのは暗号技術の「共通鍵暗号」に限った話で、現在主流である「公開鍵暗号」ではなかった。公開鍵暗号は1970年代中盤に生まれてから一度も警鐘が鳴らされていなかったのだ。

　その状況を変えたのが米政府機関の国家標準技術局（NIST）だ。05年、NISTは解読される危険性がある一部の公開鍵暗号を公表した。10年12月31日までに安全性の高い暗号に移行するよう“お達し”を出したわけだ。具体的に挙げられた主な暗号は、公開鍵暗号では、鍵長が1024ビットの「RSA」および「DSA」で、ハッシュ関数が「SHA─1」。すべて暗号業界で広く使われているものばかりだ。米NISTは米国だけでなく、世界的な暗号調査研究の有力機関。その団体が公表した内容の意味はとてつもなく大きい。日本の暗号調査研究機関として有力な情報処理推進機構（IPA）の山岸篤弘・セキュリティセンター暗号グループグループリーダーは、「公開鍵暗号では、ほぼ初めてといってよい“世代交代”の指令。公開鍵暗号史上最大の出来事といってもいい」と、事の重大さを語っている。

　暗号の移行を余儀なくされれば、情報システムや通信環境を変更する必要があり、ユーザー企業・団体とそれを構築するITベンダーにとっても影響は大きい。ユーザーは追加投資を余儀なくされ、ITベンダーにとっては特需を生む。

　このお達し、日本ではIPAや情報通信研究機構（NICT）、電子政府で利用する暗号を選定するCRYPTRECが同様の問題を指摘してきたが、影響力は薄かった。だが最近、その事情が変わりつつある。08年4月、内閣官房情報セキュリティセンター（NISC）が問題視されている暗号からの移行指針を発表したのだ。このことは実質、米NISTの方針に日本の政府機関が合わせたことになる。

　政府機関が動き出したとなれば、ユーザー企業も無視はできない。「解読の可能性あり」とのレッテルが貼られた暗号製品を購入するケースはまれとなり、新暗号技術に対応していなければビジネス展開が難しくなる可能性すらある。ただ、一方で山岸グループリーダーはこうも指摘する。「ベンダーにとっては大きなチャンス。例えば“2010年問題対応暗号ツール”などと謳って製品の優位性をPRできたり、バージョンアップを促すこともできるだろう」。

　日本の暗号市場は1000億円程度といわれ、決して規模は大きくない。IT業界全体からみればインパクトは小さいかもしれない。だが、新たな需要を生む起爆剤になる可能性を十分に秘めているのだ。