IoTやAI(人工知能)などのテクノロジーの普及は、企業が新たなビジネスの展開や既存ビジネスの変革を検討する大きなきっかけとなっている。いわゆるデジタルトランスフォーメーション(DX)である。とはいえ、最新テクノロジーを活用するだけではDXの実現が見えてこない。これまでと違ったアプローチも必要だ。そうした中で注目されているのが、人に注目してニーズを発見する「デザイン思考」である。ユーザーとの距離という意味では、アジャイル開発やDevOpsに通じるものがあるため、システム開発への応用も期待される。では、デザイン思考に取り組むに当たり、どのようにアプローチするのが効果的なのか。SAP、富士通、IBMの取り組みから、デザイン思考を実践する方法を紐解いていく。(取材・文/谷川耕一)
デザイン思考で生まれたインメモリーデータベース
「人に注目し、インサイトとアイデアを出す。そこから製品やサービス、プロセス、イベント、ソフトウェアや政策に至るさまざまなものに新しいUXを生み出す」。これがSAPのデザイン思考の捉え方だ。ここに至るきっかけは、SAP創業者の1人、ハッソ・プラットナー氏にある。
プラットナー氏は2004年、同社の年次カンファレンス「SAPPHIRE」へ向かう際に乗った飛行機の中で、デザイン思考を取り上げた雑誌記事を読んだ。記事は、デザイン思考で有名なIDEOの創設者の1人で、スタンフォード大学でデザイン思考の教育も行うデビッド・M・ケリー氏が書いたもの。その内容に大きく感銘し、SAPPHIREで予定していたプラットナー氏の基調講演を急きょ、デザイン思考の話に変更するほどだった。その後、SAPはデザイン思考を社内に取り入れる。さらにプラットナー氏は私財を投入し、デザイン思考やイノベーションの拠点となるスタンフォード大学の「d.school」を開講する。
SAPは、1972年にスタートアップマインドを持つ会社としてドイツで生まれた。その後に大きく成長し、世界に社員9万人を擁する規模となり、スタートアップマインドは次第に薄れてしまう。「デザイン思考をビジネスのフレームワークとして取り入れ、創業当時のマインドをとり戻そうとした」と語るのは、SAPジャパンの原弘美・イノベーション推進室カスタマーイノベーションプリンシパルだ。
ERP製品で市場をリードしていたSAPだが、このままではディスラプター(破壊者)に市場を破壊されかねないとの危機感があった。それを避けるには、自分たちが変わらなければならない。ところが、経営企画チームからは新しい戦略がなかなか生まれなかった。
SAPジャパンの首藤聡一郎・バイスプレジデント
チーフイノベーションオフィサー(左)と
原弘美・イノベーション推進室カスタマーイノベーションプリンシパル
そこで、まず社内に小さなデザイン思考のチームを組織した。ここと経営企画チームが一緒になり、デザイン思考で新たな戦略を打ち出すというわけだ。成果の一つが、インメモリーデータベースの「SAP HANA」。HANAはリレーショナルデータベース市場のディスラプターとなり、オラクルやマイクロソフトが追随することになる。
「弱かったUX(User Experience、ユーザー体験)の改良でも、デザイン思考を取り入れた。グーグルのサービスやフェイスブックなどのSNSに慣れたユーザーに対し、SAPのアプリケーションのUXをどう改善すべきか。社内のアップハウスというチームがコンシューマー向けアプリケーションをデザイン思考で作り、試行錯誤を繰り返した。どこがどう使いにくいかなどをデザイン思考でディスカッションし、新しいUI/UXの経験を積んでいった」と原氏。ビジネスアプリケーション群「SAP Fiori」も、ここから生まれている。
「0」から「1」を生み出すのはデザイン思考でも難しい
SAPでは今や、デザイン思考が企業DNAとなっている。企画部門だけでなく、営業部門や経理部門など、全ての職種、全ての地域が対象だ。例えば経理部門には、契約が複雑でライセンスの仕組みも分かりにくいという理由から、契約を扱う専門チームがあった。それでも契約プロセスに時間がかかっており、改善に向けた取り組みが必要とされていた。企業規模が大きいことから、ビジネスコンサルタントなどに頼りたいところだが、SAPは自らデザイン思考アプローチによって改革を実現した。
国内でも、デザイン思考に取り組み、社内教育などを行っている企業はある。しかし、その多くはデザイン思考の作法を学ぶことにとどまっている。「新人を集めてデザイン思考の教育を実施するだけでは、なかなかうまくいかない。何のためにデザイン思考を取り入れ、どういうストラテジーで取り組むのか。これがないと、企業に文化としては定着しない」と、自らの経験から原氏は実感している。
また「定着させるには、時間やリソースを確保できる立場の人のコミットが必要」と語るのは、SAPジャパンの首藤聡一郎・バイスプレジデントチーフイノベーションオフィサーだ。その上でKPI(重要業績評価指標)を定義し、何度も繰り返せる体制を築くことが重要になるという。「この覚悟がないと、企業は変われない。現状、デザイン思考はSAPの営業活動の良いきっかけにもなっている。とはいえ、デザイン思考をその会社の方法論として定着できるかどうかで、その後のビジネスの質的な拡大が違ってくる」とも首藤バイスプレジデントは指摘している。
SAPは、顧客と共にデザイン思考アプローチを実践する場として、シンガポール、ニューヨーク、パリなどに「SAP Leonardo Center」を開設。ほかにもイノベーションセンターやSAP Labが世界中にある。また、デザイン思考を学習し、自身がファシリテーターとしてデザイン思考ワークショップを開催できるようにするためのトレーニングコースを提供。さらに、ソフトウェア開発をデザイン思考で行うプログラムも用意している。
SAPが顧客とデザイン思考のワークショップを行う際は、SAP製品の利用を前提としない。デザイン思考で一緒に考え新たな方向性が見えた際に、SAP製品に価値を感じてもらえれば活用してもらうという方針だ。新たな変革に必要なAIやIoTのためのソフトウェアは、SAPにも揃っている。とはいえ、具体的な顧客サービスの実装をSAPが担うわけではなく、そこは顧客やSIパートナーなどが行う。そのため、顧客だけでなくパートナーも一緒にデザイン思考のワークショップに参加することもあるという。「デザイン思考でも、0から1を生み出すのは簡単ではない。しかし、1を10にするのは案外簡単。SAPの中には、そのためのノウハウがすでに積み重ねられている」と首藤バイスプレジデントは言う。
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