新型コロナ禍により羽田空港を利用する旅客数は大きく減少した。2019年通年では8700万人を超える規模だったのが、20年は約3200万人、21年は約2600万人という低水準で推移している。しかし状況は変わりつつある。航空需要は回復傾向で、向こう2年ほどでコロナ禍以前の水準に戻る可能性がある。羽田空港旅客ターミナルを中心に「施設管理運営」「物品販売」「飲食」の3事業を手掛ける日本空港ビルデングは、この波を再成長につなげるべく、データを活用した顧客体験の向上施策に本腰を入れ始めた。5月に開催されたワークスアプリケーションズのイベント「Works Way 2022」に登壇した、マーケティング戦略部の堀史晴・マーケティングシステム課課長に取り組みや狙いを聞いた。
(取材・文/本多和幸)
前段として、新型コロナ禍が日本空港ビルデングの業績に与えた影響を確認してみる。コロナ禍直後となる21年3月期の売上高は前期比79%減の525億円、営業損益は590億円の赤字。22年3月期は売上高570億円、営業損益は412億円の赤字と前期よりは若干持ち直したが、それでも厳しい数字が続く。
国際線はもとより、国内の移動も大幅に制限された2年間だったため無理もないと言えるが、事業ごとの売上高比率にも大きな変化があった。第3四半期までコロナ禍の影響を受けていない20年3月期の売上高は2497億円だったが、その内訳をみると、施設管理運営業が829億円、物品販売業が1478億円、飲食業が189億円という構成だった。一方、21年3月期は施設管理運営業が359億円、物品販売業が136億円、飲食業が29億円と、いずれも大きく落ち込んだが、とりわけ稼ぎ頭だった物品販売業は90%を超える売り上げ減となり、落ち込み幅が大きかった。飲食業も85%程度の売り上げ減で、総じて空港を訪れる人に向けたビジネスに強い向かい風が吹いたと言えよう。22年3月期もセグメントごとの売上高比率は大きく変わっていない。
同社は22年5月18日、22年3月期の決算発表と同時に、26年3月期を最終年度とする新たな中期経営計画を発表し、反転攻勢のための再成長プランを示した。経済・社会活動の正常化の兆しが見え始め、旅客数についても「国内線は観光需要がけん引して早期に回復し(23年3月期通期で)コロナ影響前の85%まで回復すると見込んでいる」と事業環境は好転し始めているとみる。羽田空港の既存の商業施設の再活性化を進め、売り上げを回復させることが喫緊の課題であり、26年3月期の目標として、物品販売業の売上高1560億円、飲食業の売上高180億円という数字を設定した。それぞれの事業セグメントのビジネス規模をコロナ前の水準に戻す計画だ。そして中計実現のための核となる施策に、デジタルマーケティングを据えた。
データを基に顧客起点で空港の利用体験を豊かに
デジタルマーケティングを本格化するための準備は既にこの2年間で進めてきた。20年7月にマーケティングの専門部署を設立し、まずは改めて「顧客を知る」ための活動を開始。旅客、非旅客を問わず、空港利用者のペルソナを仮説を基にセグメンテーションし、その確認と修正のために追跡調査やアンケート、インタビューなどを行った。
同時に、顧客体験に焦点を絞り、顧客接点をオムニチャネルで横断的に構築していくために、物品販売業、飲食事業、さらにはECやデジタル関連事業、情報システム部門などが連携してプロジェクトを進める体制を整えた。そのデジタルマーケティングの取り組みはマーケティング戦略部がリードする。堀課長は、同部のマーケティングシステム課だけでなく、デジタル事業推進部の事業企画課とIT業務課、リテール営業部EC事業課の課長も兼務している。サービス提供側の縦割りの組織構造などに囚われず、データを基に顧客起点で空港の利用体験を豊かにすることにフォーカスしたかたちだ。
体制整備と並行して、顧客体験向上とデジタルマーケティングのための基盤となる仕組みもスピーディーに開発し、21年3月には「羽田空港公式アプリ」をリリースした。フライト情報案内や空港内の店舗検索、混雑状況案内、Eコマースなどのベーシックな機能を会員登録などのゲートを設けずに提供するものだった。堀課長は「まずはマスマーケティングから開始することにし、アプリを通して空港を便利に、楽しく使ってもらうこと、なるべくリアルタイムに情報を発信することにこだわった」と語る。
もちろん、これは最初の一歩にしか過ぎなかった。「これからのお客様のニーズに合わせた空港の利用体験を実現するには、マスマーケティングだけでなくワン・トゥ・ワン・マーケティングの仕組みを整えることが急務だと考えていた」(堀課長)。公式アプリのリリース後も顧客の調査や分析を継続し、21年の後半はアプリをワン・トゥ・ワン・マーケティングの基盤に進化させるための機能拡張や新規機能の実装計画を練り上げるとともに、先行して提供する新機能の開発に取り組んだ。
そして今春、アプリをバージョンアップし、ログイン機能を追加。ユーザーは会員登録(性別や居住地域、年代といった属性、羽田空港の利用目的の入力が必要)をしてログインすると、会員限定のサービスを利用できるようになる。顧客体験の向上と物品販売業・飲食業の収益拡大に向けたワン・トゥ・ワン・マーケティング施策が本格的に動き始めたのだ。
具体的なサービスとしては、会員向けにバージョンアップしたオンラインショップ機能と会員限定向けのクーポン発行機能を先行して提供済みだ。今夏には、自身が登録した搭乗便に合わせてターミナルや保安検査場、搭乗ゲートなどの情報を提示する機能や、顧客ごとのニーズに合わせた搭乗時間までの過ごし方の提案機能もリリースする。さらに23年3月期中には、飲食店やラウンジなどの優先予約サービス、IoTを活用した店舗や各施設の混雑情報通知サービス、オンラインショップと店舗の両方で使えるポイントサービスなどの実装も予定している。
会員向けサービスの全体像を検討するにあたっても、顧客の調査や分析を長期間、丁寧に重ねることで、会員登録増につながるサービスラインアップを整えることができたという。
会員向けサービスの大分類は八つあり(下表参照)、会員登録してでも使いたい機能かどうかを聞いたアンケートを基に設定された。アンケート結果に濃淡はあったものの、最も人気がなかったサービスでも支持率は2割程度あり、空港利用者の母数を考えると経営上のインパクトは大きいと判断したという。堀課長は「旅行情報の管理をしてくれるアプリは他社にもあるが、当社の強みは羽田空港というリアルの場でしか取れない情報を基に、ターミナルで過ごす時間の充実や効率的な時間の利用につなげる支援が個別最適でできること」であると強調する。例えば、空港利用者が空港内で思いがけず時間がなくなり、寄りたかった売店に寄れなかったケースはしばしばある。アプリを活用してもらうことには、このような機会損失を防ぐ効果も期待される。
顧客情報に紐づけ多様な情報を統合管理
マーケティング戦略に沿ったIT基盤の整備を短期間でかたちにしなければならないという課題もあったが、社内横断的な体制整備が功を奏し、スムーズに進んだという。
まず、既存のオンラインショップや国際線ターミナルの免税店事前予約サービスに活用してきたスクラッチ開発のCRMをベースに、羽田空港公式アプリ経由で取得した顧客情報も合わせて管理できる基盤を整備。さらに、この顧客情報をさまざまなデータと連携させてマーケティングに活用するための仕組みも整えた(上図参照)。
例えば日本空港ビルデングは基幹システムにワークスアプリケーションズの「HUE Classic」を採用しているが、「特にSCMモジュールを使い倒しており」(堀課長)、POSシステムなどと連携させて店舗の売り上げ情報や在庫情報をリアルタイムで管理できるようにしている。こうした情報や、Wi-Fi利用実績、搭乗実績、空港内に約3000個配置されたビーコンによる位置情報などを顧客情報と統合的に管理することで、「お客様の趣味嗜好や来港回数、以前にご利用になったサービス、購入された商品などを踏まえたうえで、適切なタイミングで最適なレコメンドを発信することが可能になる」と堀課長は力を込める。
一部開発会社の支援を受けつつも、基本的には内製でプロジェクトを主導し、一連のデジタルマーケティング整備の設計・開発は2カ月で完了した。HUE Classicの外部連携のしやすさもその大きな要因だったという。堀課長は「外部システムと連携する際、インターフェースをつくるのに苦労することが多いが、HUE Classicはかなり細かいところまでコンフィギュレーションで管理することができる。プログラミングも必要ないので、普通の情シスであれば自分たちで手を動かしてできることが多い」と話す。
旅行や帰省、出張のハードルは着実に下がってきている。日本空港ビルデングのデジタルマーケティング施策は、スケジュール的にも適切なペースで進められてきたようにみえる。堀課長は「最高のおもてなしにつながる布石は打ってきたと考えている。アプリのバージョンアップをさらに重ね、お客様のことをもっと知り、継続的に新たな施策を打ち出していく」と展望を語る。