虎ノ門ヒルズに3拠点目となるオフィスを構えたアイレット。海外のリゾートホテルをイメージしたデザインは、世界で活躍する話題の若手建築家・谷尻誠氏が担当した。虎ノ門ヒルズという場所に加え、おしゃれな内装。実にお金がかかっている。それでもアイレットの齋藤将平代表取締役CEOは「勢いのあるベンチャー企業だと知ってもらうには、安い投資」だと言って笑顔をみせる。アイレットは、国内でいち早くAmazon Web Services(AWS)を手がけ、クラウドの普及とともに技術者集団として頭角を現してきた。その技術者集団を率いる齋藤CEOの魅力に迫る。
年収1600万円が社会人のスタート
──アイレットの設立前は、どのようなことをされていたのか……。学校を卒業されたところから、教えてください。 齋藤 高校卒業後は専門学校に進もうとしました。でも、スポーツ好きだったので、スポーツインストラクターになろうとしましたが、やめました。それよりも、当時の若さでいくら稼げるのかにチャレンジしたくて、トラックの運転手になりました。それなら年齢に関係なく稼げるので。トラックの運転手は夕方に仕事が終わるので、夜はカラオケボックスのアルバイトもやっていたんですよ。だから、年収が1600万円くらいありました。
──ずいぶんと稼ぎましたね。 齋藤 ただ、限界を感じたんですよ。疲労が蓄積しますし、年齢とともに体力は落ちますから。19歳くらいでそれに気づいたときに、当時普及し始めたパソコンをみて、将来性があると思ったんです。未経験で採ってくれるところを探して、面接とテストをクリアして、20歳からプログラマになりました。1998年頃です。
──年収は激減したかと。 齋藤 半分以下なんてもんじゃないです。でも、必死に勉強しましたね。すると、どんどん仕事の範囲が広がっていって、システム開発のリーダーを任されるようになります。そうしたなかで、ウェブ系の開発案件があって、手を挙げました。当時勤めていた会社は、基幹系システムの開発が中心で、ウェブ系をやる人がいない。ゴルフ場予約システムの案件でしたが、私が一人で受けることになります。ゴルフ場予約システムでは、いかにして使ってもらうかというマーケティングの世界を学びました。
──ユーザー視点のシステム開発ということですね。その会社は長かったのですか。 齋藤 5年ほどいましたが、結果的にゴルフ場予約システムをつくっていた会社にヘッドハンティングされたんです。ただ、そこはマーケティングの会社でしたから、技術会社じゃないんですよ。やはり、僕自身はプログラマであって、技術者集団として、スピード感のあるシステム開発をやっていきたいという思いがあったので、独立を決めました。26歳のときです。
──トラック運転手の経験は、つながらないのですね。 齋藤 その経験は、まったく生きてないですよ。ただ、目上の人とのコミュニケーション能力は、すごく上がった気がします。助手は常に年長の人でしたから。
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