昨年11月、日本HPの新しい社長に岡戸伸樹氏が就いた。その直前の肩書は「デジタルプレス事業本部長」。PC事業を本丸とするHPにとって、デジタルプレス事業からのトップ起用は意外にも思える。しかし岡戸氏は、デジタルプレス事業は、HPにとって「イノベーションを起こすテクノロジーシンボル」であるとし、市場に創造的な破壊をもたらせると力を込める。新型コロナ禍に端を発するGIGAスクールやリモートワークの特需が落ち着き、PC市場も変貌していく中、どうかじ取りしていくのか。
(取材・文/藤岡 堯 写真/大星直輝)
さまざま事業の経験が生きる
── 社長に就任して率直な思いを聞かせてください。デジタルプレス事業本部長からのトップ起用ということに関して、プリンティング事業へ注力する意志の表れとみる向きもありますが、どう考えますか。
世界が大きな変化を遂げ、過渡期にある中で、岡(隆史前社長、現会長)の年齢的な部分もあり、新しい方向へ進む意味でバトンタッチにはいいタイミングだったと思います。いずれは経営のトップになれたらいいなとは思っていたので、自分のキャリアという意味でも光栄に思いました。それと同時に身の引き締まる思い、責任を強く感じました。
確かにプリンティング事業は売上規模で見れば、日本でも世界でもそれほど大きな事業ではありません。ただ、われわれにとって非常に重要な事業であり、まさにイノベーションを起こすような、テクノロジーシンボルのような事業であります。会社の中ではディスラプション、いわば破壊的な市場創造を起こす分野だと思っています。
私の社長就任に関しては、これはもしかしたらHPのカルチャーかもしれませんが、何か一つの事業だけを掘っていくよりも、さまざま事業を経験することも大切だと感じます。当然トップになれば、売り上げの規模は関係なく、皆さん日本HPのお客様なので対応できなければなりません。私の場合、Eコマースから入り、個人向けPCの責任者、量販店の担当、デジタルプレスと、いわゆるミクロな個人のお客様から、大きな機械を売るような事業まで経験して、幅広く理解していることも人事としてあったのかなと思います。
── デジタルプレスの今後の展望はいかがでしょうか。
例えば、コロナ禍になって今までにないほど小ロットの印刷ニーズが多くなってきました。需要が読めなくなっていますので、今まではオフセット印刷で大量に何万部刷っていたものをデマンドに合わせる形で少しずつ刷っていこうというニーズがあります。
マーケティングにしても、今まではマスに同じようなDMを送ればよかったものが、お客様に刺さるようなDMにしようということで、パーソナライズされる傾向があります。このような流れの中でデジタルプレスの需要は間違いなく伸びていくと思いますし、非常に重要な事業であると考えています。
われわれのデジタル印刷は非常に高品質で、オフセット印刷の置き換えができることが、まず一つの大事なポイントかなと思っています。版がないので、ウェブでの受注から生産、加工までを一気通貫で行え、しかも全て見える化しているので生産状況の把握もでき、入り口から出口まで効率のいい生産システムを組むことができるのも売りです。それから、インクも多くの色を兼ね備えているので(色の)再現性が高い。この三つが差別化できるポイントです。
PC市場「大きなビジネスチャンスある」
── 主力のPC事業については、どう見ていますか。GIGAスクールやリモートワークの需要はありましたが、今後は縮小傾向が予想されています。
確かに一時期のような勢いは当然ありません。ただ、これからもPCは必需品であり、仕事をするとか、大画面で何かを見るとか、そういう用途にはスマートフォンよりもPCのほうがいいというようなすみ分けができています。今後も堅調に需要は推移していくと受け止めています。
リモートワークで言えば、まだ東京や大阪などの都市部が中心であり、その他のエリアではこれからニーズが高まるとみています。使用頻度が高くなれば買い替えのサイクルも短くなっていきますし、GIGAスクールで若年層がIT機器に触れることでリテラシーが上がり、一人一台というような普及も期待できます。若い世代が早い段階でPCに触れれば、購買行動も将来的には起こってくるはずです。周辺機器やサービスも含め、大きなビジネスチャンスがあるだろうと捉えています。
加えて、ゲーミングPCも日本では重要になると感じます。日本はコンソールゲームが強いですが、PCゲームとは楽しみ方が異なります。その違いをしっかり伝えていくことで、伸ばせる余地があります。PCゲームは、ゲームだけではなく、人とのつながりが広がっていくこともあり、コミュニケーションの入り口としても今後の可能性は十分に考えられます。
── 「Device as a Service」型の提供形態を大手PCメーカーでは最も早くから手掛けています。最近のニーズの動向を教えてください。
IT部門の管理工数を減らし、セキュリティ、ガバナンスを利かせる。その意味でニーズはどんどん増えていくと思います。働く場所も多様化していくことを踏まえれば、端末の使用状況をモニタリングして、セキュリティを担保していくために、今後伸びていくでしょう。現時点でも手応えはあります。
PCの従来の売り方は「売っておしまい」で、次にお客様と繋がるのはたいていトラブルが起きたときであるのが一般的です。けれども、そうではなく、ちゃんと利用していだいている間、きちんとエンゲージしていく意味で、「コト売り」「サービス売り」は非常に大切です。それによって、お客様に高度なPC体験をしっかりと提供していければ、買い替えや増設にもつながります。その点でも、これから先は、そういう方向に進んでいく必要があるでしょう。
ハードウェアの差別化はもちろんですが、それだけでは十分ではありません。お客様とのリレーションをつなげていくという意味でも本当に大きな差別化ができるポイントだと考えています。
3Dプリンタに可能性
── PCやデジタル印刷以外で、今後の柱になるテクノロジーはありますか。
3Dプリンタに可能性を感じています。日本は製造業立国であり、ものづくりのデジタル化への潜在ニーズは大きい。パーツ点数が多いものを極力少なくしたり、少量多品種のような生産にしたりする場合に活用できます。また、長期的にパーツ供給をしなければならない事業者は、図面や金型、在庫の管理などのライフサイクルに対するコストが高まりますが、その部分を効率化するためにも3Dプリンタをお使いいただけます。まだ黎明期ではありますが、市場は大きく、将来性は非常にあります。また、AR・VRの技術も、以前はエンターテインメントの分野が中心でしたが、新しいビジネスモデルが作れるようなレベルにまで達しています。
── ディスラプションという点では、金属3Dプリンタの持つ可能性に注目が集まっています。HPの金属3Dプリンタは海外では先行的に展開されています。日本での展開に期待する声もありますが、現状はいかがでしょうか。
デジタル印刷もそうですが、日本のお客様は品質に対する強いこだわりがあります。海外では許される品質が日本では許されない。日本のお客様の要求をこなせる形を、グローバルに伝えていく。大切な国を担当していると思っています。
日本のお客様の求める高いレベルは、われわれにとってためになるものです。テクノロジーとしてブレイクスルーしなければならない大切な要求であり、海外の開発に伝えていくことで、ほかの国でも使えるサービスになっていきます。
── これからの目標をお聞かせください。
まずはビジネスの面で成果を残すことです。主力のPCはお客様、パートナーに受け入れていただける形でビジネスを更新し、成長させていく。それから、これまでのキャリアでも新しいビジネスの立ち上げを経験しているので、デジタルプレスや3Dプリンタなどでポートフォリオを広げられるような形にしたい。あとは、お客様の買い物の仕方も大きく変わっているので、製品依存でなく、サービスの面でも新しいチャレンジをして、伸ばしていきたい。
二つめは、優秀な人材を輩出できる会社でありたい。女性やシニアも含め、多くの人材が活躍できるような会社を実現したいと思っています。
三つめは、サスティナビリティの部分です。企業のトップとして、社会的責任を果たすことは避けては通れない至上命令です。そこを犠牲にすることなく、ビジネスを伸ばす。われわれの製品やサービスを利用すると、環境改善につながる。そこを目指していきたいと思います。
眼光紙背 ~取材を終えて~
リーダーである以上、頑迷な態度は望ましくないと考える。「極力引き出しは多く、相手の動きやすい形で、柔軟に対応したい」。
ただ、それでもこだわりたい思いがある。
「凡事徹底」。それが信念だという。高い目標を掲げれば掲げるほど、足元がおろそかになってしまう。就任後、従業員に対しても、いの一番に伝えたことでもある。
「何事も基礎が大事、高い目標を目指せば目指すほど、足腰がしっかりしていないといけない。これだけは忘れてはいけない」
当たり前のことを当たり前にする。言葉にすれば簡単だが、実践するのは難しいことだろう。
自社で言えば、PC事業という足腰がしっかりしてこそ、新たな事業にチャレンジできる。そんな意味も浮かんでくる。
今年は寅年。自身は4度目の年男を迎えた。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。さまざまな場面でそんなあいさつをしている。
足元を見据え、当たり前のことを当たり前にこなしながら、リスクをとって勇猛果敢に挑戦していく。柔和な表情の奥から、強い気概が伝わってきた。
プロフィール
岡戸伸樹
(おかど のぶき)
1974年生まれ。97年、一橋大学商学部卒業後、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)入社。その後数社を経て、2003年1月、日本ヒューレット・パッカードに入社。15年の分社に伴って日本HPへ移り、執行役員Eコマース事業本部長に就任。17年に常務執行役員Eコマース事業本部長兼コンシューマ事業本部長、19年に常務執行役員デジタルプレス事業本部長。21年11月から現職。
会社紹介
【日本HP】世界約170カ国でPC、プリンタ、3Dプリンティングソリューションの製品やサービスを展開する米HP Inc.の日本法人。21年11月には本社を東京・港区へ移転。