大航海時代

<大航海時代>第22篇●新しき勇者たちへ 第104話 楊貴妃

2003/10/27 16:18

週刊BCN 2003年10月27日vol.1012掲載

水野博之 高知工科大学綜合研究所所長

 奥方は大切である、と書いてきたが、何といっても亭主に影響を与えた点でいえば楊貴妃(719-756)をもって随一とするであろう。楊貴妃は唐の6代皇帝、玄宗(685-762)の寵愛を受けた。玄宗ほどの名君が愛した女だから、よほどの才女であったのであろう。歌謡舞楽器をよくし、近づくと馥郁たる薫りがしたといわれる。唐のもっとも盛んな時代をつくりあげた玄宗が人生50も過ぎ、政治にも飽きはじめたころ、この絶世の美女に会ったのだから、たちまちそのとりことなった。

 いささか、私見をまじえて言うと、楊貴妃は、美人というより才女というべきであろう。現在伝わる楊貴妃の像を見ても、そのことがうかがえるのだ。当時と今では美的な評価が違っているにしても、それらの像は、異様な迫力をもっている。大唐の六首である玄宗のことだ。美女なんて山ほどまわりにいたであろうから、楊貴妃にはそれら美女の持たない何物かがあったに違いない。玄宗はただひたすらに楊貴妃とともに遊び、政治をかえりみなくなった。さしも栄華を誇った唐朝にも退廃の兆しが濃厚となった。こうして安祿山の乱(705-757)が起きる。

 安祿山は胡の人というから異民族である。彼もまたその武を玄宗に愛され重用された男だ。楊貴妃はその乱を玄宗とともに逃れる途中、捕まって殺されるのである。後に白楽天は楊貴妃の一生を「長恨歌」という叙事詩にまとめた。この位になると内助というか外助というか、よくわからんけれども、残された玄宗は一生、楊貴妃と別れたことを恨みとしたというから大変なものだ。玄宗ほどの偉人をこれほどまでに虜としたのは驚くべきことである。玄宗はウジャ、ウジャ言いながら楊貴妃が死んだ後も生き続け、80近い人生を全うしたのだから、やっぱり偉大な内助というべきだろう。(那須高原にて)
  • 1