人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~

<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載7 一度会っただけで肝胆相照らす仲に

2006/11/27 16:04

週刊BCN 2006年11月27日vol.1164掲載

 奥田喜久男(BCN社長)が、パソコンの販売界で初めて得た知己は、上新電機の浄弘博光社長(故人)であった。パソコンに憑かれた二人は、一度会っただけで肝胆相照らす仲になった。「浄弘さんが生きておられれば、パソコンの販売界の地図は大きく変わっていただろうな」と奥田はみる。

上新電機 浄弘博光社長

■いち早く大型パソコン専門店を開く

 パソコンの販売界で、奥田が最初に“肝胆相照らす”仲になったのは上新電機の浄弘博光社長だった。上新電機が日本初の大型パソコン専門店「J&P」(現・J&Pテクノランド)を大阪・日本橋に開店したのは1981年11月である。BUSINESSコンピュータニュース紙の創刊は同年10月15日だから、ほぼ同時スタートといってよいが、J&Pのほうは、大型家電店が本気でパソコンの販売に乗り出してきたと大手マスコミがこぞって取り上げ、あっという間に全国的に知られることになった。

 「82年に入って、うちの記者の一人が浄弘社長への取材を申し込んだら、本人が直接出てきて、『いいよ』とあっさり承知してくれた。それで会ってきた記者が『すごい人だ』としきりに感心している。私も会いたくなり、申し込んだらこれもあっさり承知してもらえた。実際に会ってみて、感銘を受けた。肝胆相照らす仲というと浄弘社長に失礼かもしれないが、そんなつき合いが始まった」のである。

 「奥田君、今晩東京に入るんだけど、明朝8時に○○ホテルまで来てくれないか」というような間柄になっていった。

 じつは、奥田にとって上新電機は思い出深い企業でもある。最初の会社(新聞社)に合格した時、入社前研修の名目で、新聞売りをさせられたことがある。「まだ学生だったが、約40日間、新聞と単行本を売りに歩かされた。ものを売ったのはこの時が初めてだが、あまり苦にはならなかった。私は大阪支社採用だったので、関西地区の電器店を対象に、来る日も来る日もパパママストアを回った。松下電器を代表とする家電メーカーの隆盛ぶりと、それらの製品を実際に売る家電店との落差の大きさにビックリしたことなどを鮮明に覚えている。上新電機が関西地区を中心に出店攻勢をかけていた時で、どの地域に行っても上新の大きな看板が見える。ああこういう会社もあるんだ、こうした大型店とパパママストアは共存できるんだろうか、などと思いながら小さな電器店回りを続けていた」そうだ。

■東京に出るけど、どこがいい? 

 浄弘社長が奥田を評価してくれたのは、当時コンピュータニュースに連載していた「Computer Business Report-パソコンショップの経営状況」という連載記事に理由があった。

 コンピュータニュースでは、創刊と同時に「コンピュータ・ディーラーの夜明け」という長期連載をスタートさせていた。全国のディーラーを対象に、どんな動機でコンピュータを扱いはじめたのか、社員数は、売り上げは、パソコンをどう見ているかなどを克明に取材していった。そうした足で集めたデータをもとに、もう一工夫してまとめたのが「パソコンショップの経営状況」であった。

 IDCの創業者であるパトリック・マグバガン氏から示唆された「大切なのはランキング」の一言を奥田流に消化したのがこの連載であり、のちに小冊子にまとめている。

 いわば「パソコンに憑かれた」二人だけに、会うと話の種は尽きなかった。二人とも、パソコンの将来性自体は信じつつも、実際のビジネスは暗中模索を続けていた。「度量の大きい人で、私の話もきちんと聞いてくれて、『それは違うと思うよ』などと議論になることもしばしばだった」。

 浄弘社長は、早くから東京進出を狙っていたが、具体的な行動を起こしたのは82年であった。「東京に出るとしたらどこがいい?」と聞かれたことがある。奥田は「お茶の水」をあげたが、浄弘社長は最初から「渋谷」に決めていたようだ。83年4月29日、「J&P渋谷店」がオープンした。その前夜、奥田はこの店舗を案内してもらっている。

 85年10月、突然訃報を聞いた。「その少し前、大阪ミナミの日本橋の地下鉄ホームで、ばったり出くわしたことがある。この時は、ほかの店を回る予定だったんだが、電車を降りたら、片手に礼服をぶら下げて歩いている浄弘社長とばったり。あれっ、電車使うんですかって聞いたら、このほうが早いからねと言っておられた。これが最後の会話になったが、志半ばであり、悔しかっただろうなと思う」。(石井成樹●取材/文)

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