人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~

<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載10(最終回) 経営の師であり人生の師

2006/12/18 16:04

週刊BCN 2006年12月18日vol.1167掲載

 奥田喜久男(BCN社長)が、大塚商会の大塚実社長(現・相談役名誉会長)からそれなりの評価を受けるようになったのは、大塚商会が1976年にオフコンの仕入れ先を内田洋行からNECに変えた時からという。以来30年「取材といっては会いに行って、さまざまなことを教えていただいた。経営の師です」という関係が続いている。(石井成樹●取材/文)

大塚実氏(大塚商会相談役名誉会長)

■30年越しの付き合い

 奥田が業界新聞社に入社したのは1975年で、オフコンの取材を任されていたことは前に触れた。その取材を通じ、内田洋行の久田仁氏、大塚商会の大塚実社長、NECのオフコン部隊の幹部などと面識を得ていったが、「大塚商会が内田洋行と切れるらしい」とのうわさが飛び込んできたのは76年だった。早速取材をかけると、「本当」だと分かったが、記事にはしなかった。この取材を通じ、「大塚さんは、自分の人となりを評価してくれたのだと思う」と振り返る。

 仕入れ先を変えるのは、 メーカーにとっても販売店にとっても、死活問題である。なぜ、そんな決断をしたのか。理由は大塚商会側の事情にあった。同社は、1970年に電算機事業に進出、立ち上がりは順調だったものの、第一次オイルショック(1974年)による不況で、業績は低迷、社内のコピー機販売部隊から「電算機不要論」が声高に叫ばれ出したのが75年だった。反対派の急先鋒だった楢葉勇雄取締役(当時)を電算機事業部長に起用することで、「オフコンにかける社長の本気度」を示したが、76年に入ると内田洋行は「サービスの専門会社を作るので、サポートはこの会社に任せて欲しい」と言いだした。これに大塚社長が反発、公にはなっていなかったが、同社はすでにNECに接触していることを奥田は知ったのである。

 「久田さんにも近かったし、大塚社長の信頼も得たかった。サポート問題がらみという微妙な問題であり、中立的な立場では記事にしにくいという思いもあった。ただ、この問題の取材を通じ、大塚社長は私がオフコンにそれなりの知識を持っていることを評価してくれたようだ。楢葉取締役を紹介してもらい、社内勉強会の講師に招かれたりするようになった」

 コンピュータニュース紙の創刊は1981年だが、この年、大塚商会もパソコンとワープロに本格参入を表明、92年には13地域でパソコンショップを開設した。

 「パソコンの将来性は信じつつも、お互い暗中模索していた。私が疑問に思うことが生じると、取材といっては大塚社長に会いに行った。どんな質問にも懇切丁寧に答えてくれる。実は、コンピュータ業界のことだけでなく、社員の評価はどんな具合にしているんですかなど、経営に関することもずいぶん教えていただいた。凄腕の営業マンだったと聞いているが、創業してからは自身で営業することは封印されたそうだ。なぜですかと尋ねたことがある。すると、個人の力には限界があり、組織をつくらねばならないと考えていたこと、何よりNo1の者が売ったら下は育たない、という答えが返ってきた。それが印象に残っている。90年代初めのバブル経済崩壊では、自社ビルに積極的に投資してきたことが、一転して重荷になってしまったそうだ。本当に大変だったろうと思うが、当時は一切弱音を吐かなかった。後になって、あの時は四重苦五重苦だったよと、笑いながら話されたが、ああ、これが真の経営者かと思った」

■人生の仕上げは自然保護にかける

 2005年初め、奥田は大塚氏に同行、韓国の清渓川(チョンゲチョン)を視察した。

 「大塚さんは、人生の仕上げを自然保護・再生運動にかけておられる。東京・日本橋川の再生、千葉県鴨川市の大山千枚田の保全、琵琶湖の水質浄化に向けてレイク・パピルスの開発、千葉県一宮町保有林の環境美化、河口干潟の保全などの運動を続けている。韓国の清渓川は高架高速道路を撤廃、水質浄化を実現したケースとして知られるが、やろうと思えばやれるんだと現場を見て実感した」

 「それにしても、大塚さんは生き生きとしておられる。自然保護・再生というのは、人類の未来にかかわるテーマだが、本当に情熱的に取り組んでおられる。私も、人生の仕上げは自然保護・再生運動に取り組もうと考えるようになった。私にとって、経営の師であると共に人生の師でもあるのが大塚さんです」──奥田の想いである。



【お知らせ】「人ありて我あり」の本紙上への掲載は本号で終了しますが、来年からは装いを改め、Webサイト上で再開します。
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