IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱

<IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱>第3回 情報産業の草創期は“損得抜き”

2007/04/16 16:04

週刊BCN 2007年04月16日vol.1183掲載

 わが国における広義の「情報産業」の萌芽は1950年代にさかのぼる。また、情報処理サービスで対価を得ることが一般化したのは60年代の後半、プログラムの作成がようやく「業」として成立したのは70年代だ。真空管やICの電子計算機がパンチカードで動いていた時代で、処理能力は現在のパソコンと比べたらずっと劣るかもしれない。だが、「当時のほうがよほど、今でいうシステム・インテグレーションに近かった」という指摘もある。「温故知新」という格言にならって、現状の詳細に入る前に、情報サービス産業の草創期を概観しておこう。(佃均(ジャーナリスト)●取材/文)

夢中になれた時代

■建物の設計や機種選定も

 日本で最初の独立系情報処理サービス会社が産声をあげたのは、1959年晩秋のことだった。北川宗助氏(02年に物故)が設立した「日本ビジネスコンサルタント」(現・日立情報システムズ)がそれだ。

 北川氏は、第2次大戦前の日本ワットソン統計会計機械(日本IBMの前身)でプログラミング(当時は「ワイヤリング」)とオペレーションを担当した。終戦直後、日本IBMの常務となった安藤馨氏とともに連合国軍総司令部(GHQ)の戦略爆撃調査団の電算処理に従事した。のちに在日米軍立川基地の情報処理部門を統括、さらに経営コンサルティング会社「日本ビジネスコンサルタント」を経て独立した。

 立川基地で電算処理技術を習得した人々を「北川学校の出身者」と呼ぶ。中央省庁をはじめ、日本銀行、日本航空、日立製作所、日本鋼管(現JFEスチール)など、日本を代表する企業における電算機利用の端緒は、すべて北川学校の人々が担っていた。東京・麹町に本社を構えるインフォメーション・ディベロプメント(ID)の創業者・尾眞民氏(現会長)もその一人だ。

 「中央大学の学生で、立川基地にはアルバイトとして入った。いちばん若かったので、米軍の将校からも気安く声をかけられた。童顔を皮肉られて、“ハンフリー”というあだ名だった」

 同じような体験を持つのが安藤多喜夫氏だ。氏は米軍の川崎補給廠で電算処理に従事、のち独立してデータープロセス・コンサルタント(現アイエックスナレッジ)を設立した。

 1960年、米軍の仕事から離れ、会社を起こすまでの間、日立製作所からカラーテレビの市場調査を委託された。その時「プロジェクト・プランナー」という肩書きが付いた。

 「プログラムを作ることができる特別な人と尊敬された。アンケート調査で得た数字をパンチして電算機にかけた。すると計算機は、25年後に7200万台の市場になる、という結果を出した。ほとんどその通りになった」

 60年代の初めは、電算機を思い通リに動かせるのは「スーパーマン」だったのだ。

■日本初のプログラマ

 プログラム作成を最初に職業としたのは、1955年に北海道の高校教師から有隣電機に移籍した岡本彬氏とされる。有隣電機に入社したものの、富士通信機製造(現富士通)の川崎工場に出向し、そこで「わが国コンピュータの父」と称される池田敏夫氏と出会った。

 「君が、プログラマとして日本で最初に給料をもらう男だ、と池田さんに言われて、おおいに戸惑った」

 と書き残している。岡本氏は電算機ロジックの研究に従事するつもりだった。「プログラマ」という職種名が認識されていなかったのが、戸惑いの原因だった。

 「職業安定所にプログラマを募集したいと言いに行ったら、ここでは水商売は紹介できない、と言われた。プロのグラマー、つまり場末の劇場の踊り子を募集していると勘違いされたんだ。冗談のようだが、本当にあった話」

 商用プログラム分野での初の専門家は、日本コンピュータ・ダイナミックスの下條武男氏(現会長)だ。1958年に大阪大学の数学科を出て日本レミントン・ユニバック(現日本ユニシス)に入社、59年に山一證券のシステム開発に従事するなかでロジックの大切さを痛感した。

 「プログラムはロジックさえできてしまえば、あとは簡単。コーディングの速度はアルファベットを書くスピードと比例する。ロジックがいい加減だと、後始末が大変になる」

 日本能率協会がUNIVAC120を導入したとき、常駐技術者として出向したが、理事だった新居崎邦宜氏(のち癌で物故)に見出され、コンピュータ入門講座の講師を務めた。その時、磁気テープにプログラムを格納することを発見し、さらに膨大なデータを効率よく探し当てる「2分サーチ法」を編み出した。これが米国のソフトウェア学会に紹介されて「バイナリー・サーチ法」と命名され、今日のデータベース検索技術の基礎となっている。

 会社を設立して3年目の1969年のこと、アラビア石油からシステム開発の依頼があった。「サウジアラビアのカフジ石油採掘工場に設置するIBMシステム/360を、10か月後に本稼働させたい」という要望だった。電話をかけてきたのは、のちにアラビア石油の経理部長となった関岡正裕氏である。

 「日本でそのような離れ業をやってのけるのは、下條さん、あなたしかいない」と、殺し文句で口説かれた。

 下條氏は日本電気が“バンザイ”した日本放送協会(NHK)の視聴率集計システムを、たった1週間で完成させた伝説がある。NHKにほど近い渋谷の旅館に泊まりこみ、ロジックを組み立てるやコーディングシートを書き上げ、待機していたパンチャーがカードに穿孔する。穿孔したカードをその場で計算機にかけ、間違いなく動くことを確認する。そういう作業をやってのけた。

アラビア石油に下條氏を紹介したのは、のちに青山学院大学学長となった鵜沢昌和氏だった。関岡氏が「できるだけ早く見積もりがほしい」と言うので、下條氏は翌日、総額約2000万円の見積もりを持って行った。

 「1週間後、関岡さんから、こんな金額じゃダメだ、という電話がありました。こっちは仕事がほしいんで、何とかそれでお願いできませんか、と粘ったんです。すると関岡さんは、こんな安い値段でいいシステムが作れますか?と言うんです」

 安藤多喜夫氏や岡本彬氏と同様、下條氏も周囲の人から「スーパーマン」と呼ばれたことがある。システムコンサルタントとして著名な吉原賢治氏、インテックの金岡幸二氏などは、一様に「下條学校の弟子」を自称した。

 情報サービス産業、なかんずくソフトウェ産業の草創期には、このような伝説がキラ星のように輝いていた。損得抜きで夢中になれた時代──その輝きをもう一度、取り返すことはできないものか。
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