「子どもの運動会の100メートル競走で優勝したい、どうするか」と質問すると、多くの場合、足の出し方から腕の振り方、腰の位置など、さまざまな練習方法が返ってくる。では、「子どもの運動会の」を「世界記録保持者のウサイン・ボルトとの」としたら、どのような返事が返ってくるだろうか。多くの回答は、「そもそも無理なので考えない」になる。これを、敵前逃亡という。
わたくし江崎とウサイン・ボルトの身体スペックを比較すると──身長は196cm対168cmで15%低いが、体重は95kg対100kgで5%重い。大差のないスペックではないか。しかし、ボルトは9.58秒で100メートルを駆け抜け、江崎は途中で転んでタイムなしなので、勝負にならない。ボルトだと知らなければ、だれもが挑戦してみようと思う。問題は、ボルトの写真や名前を見た途端、挑戦するために頭を使うことを諦めてしまうところにある。
どうしたらボルトに勝てるのだろうか。誰もがアドバイスするような練習では、まず不可能。では、足をロボット化するような革新的な技術を用いるのは、どうだろうか。確かにそれが実現できればボルトには勝てそうだが、五輪大会では勝つことはできない。五輪大会における100メートル競走のルール(規制)が存在するからである。
改善(練習)ではなく、革新的な技術で勝つためには、ルールを変更する必要がある場合がほとんどである。ボルトのような優秀な勝ち組は、今のルールを変えないように最大限の努力を払うことだろう。なぜなら、ルールを変えられると、古いルールに最適化されている彼は、ガラパゴスとなってしまうからだ。
さて、100メートル競走のためにつくったロボットの足は、改造すれば他の競技に流用できるし、他の領域でも使えそうだ。エミュレーション(仮の姿)のための技術が、ネイティブ(本来の姿)な利用法を獲得する。すなわち、革新的な技術が、これまでできなかった・存在しなかった世界を開拓することになる。この段階では、既存のルールがないので、ルールを自分でつくることができる。IT業界も同様だ。既存ルールに支配された退屈な分野は、革新的な何かを待っている。“敵前逃亡”せず、新しい領域を切り開いてこそ、IT業界はおもしろくなる
東京大学大学院 情報理工学系研究科 教授 江﨑 浩

江崎 浩(えさき ひろし)
1963年生まれ、福岡県出身。1987年、九州大学工学研究科電子工学専攻修士課程修了。同年4月、東芝に入社し、ATMネットワーク制御技術の研究に従事。98年10月、東京大学大型計算機センター助教授、2005年4月より現職。WIDEプロジェクト代表。東大グリーンICTプロジェクト代表、MPLS JAPAN代表、IPv6普及・高度化推進協議会専務理事、JPNIC副理事長などを務める。