日本IBMは、3月30日、年度途中に社長交代人事を発表した。新社長には5月15日付でマーティン・イェッター独IBM会長が就任し、橋本孝之社長は取締役会長に就く。75周年を迎える同社の社長を外国人が務めるのは56年ぶり。日本人の長期政権が続いた近年では異例のトップ人事だが、業績不振に伴う一般的な「引責辞任」とは異なる様相を呈する。「世界に分散するIBMの経営資源」(橋本社長)を投入した日本IBMの大改革が幕を開けたのだ。当面、橋本社長は優良企業を中心に国内事業を引き締め、イェッター新社長が社内のグローバル化を築く二巨頭体制になるとみられる。(谷畑良胤)
橋本社長は、緊急の社長交代会見後に本紙が送ったメールに対して回答を寄せた。それによると、今回の社長人事は「慎重に計画した戦略的な人事だ」としており、唐突に打ち出した人事ではないかとの憶測を打ち消している。橋本社長は、在任3年半の期間に本紙の取材に4回応じているが、毎回口にするのが「GDP(国内総生産)の5%」という言葉だ。日本の実質GDPは約500兆円。この数字に対して、日本の情報サービス産業は15兆円程度、GDP比率で2~3%に過ぎない。欧米の場合、これが5%程度に達していることからすれば、「市場拡大の余地がある」ことを訴えかけていたのだ。
日本IBMは、自動車や電機、金融機関など大手を中心に海外の成長市場へ意欲的に進出する多くの優良顧客を抱えている。一方で、国内の需要は落ち込む傾向にあり、中堅・中小企業(SMB)の海外進出が進まなければ売上高は伸びず、結果としてIT導入全体の成長も危ぶまれる。今年初めにパートナーと共同で「Team Global」というコミュニティを組織化し、海外進出を目指すSMBのIT導入支援を開始したのは、そうした懸念を払拭するためだ。
日本IBMは、日本人が歴代社長を務めてきた影響で国内指向が強く、これに国別の営業テリトリーの縛りが加わって、グローバル対応が進まなかったといわれる。今回の「戦略的な人事」は社内体制と国内企業のグローバル化を同時に実現するうえで、IBMの経営資源を知り尽くす人材を投入して改革する一方、国内の商慣習に応じた対国内体制を築くために、橋本社長が決断した苦渋の選択だったといえる。
2011年12月に取材に応じた橋本社長は、11年度(11年1~12月)の業績について、「売上高で前年度比で1ケタ台前半の増収」と答えていたが、実際は15%弱の減収だった。これに対して、2月下旬に米ニューオーリンズで開催したパートナーイベントで、システム&テクノロジーグループのロッド・アトキンス上級副社長が公表したところによれば、世界のIBMはハードウェアが6%増、ソフトウェアが11%の伸びを示している。比較対象は異なるが、世界と日本の成長速度には乖離がある。
世界のIBMで、現在、成長をけん引しているのは、同社が提唱する「Smarter Planet(スマーター・プラネット)」戦略に基づくビジネスアナリティクスとクラウドコンピューティングだ。また、アトキンス上級副社長が「12年度の第1四半期(12年1~3月)は、世界のサーバー市場でヒューレット・パッカード(HP)を抜いてトップに立った」というように、UNIX製品を中心にハードが成長したほか、11年度のクラウド事業が世界で300%の成長を遂げた。
日本市場は、リーマン・ショックの影響が欧米より遅れて波及したほか、東日本大震災の景気低迷という事情が加わった。こうしたマイナス要因が多かったことを勘案すれば、もちこたえたといえる。橋本社長が「(在任期間の)この間に起きた出来事は、10年間にも匹敵する」というのもうなずける。ビジネスアナリティクスやクラウドの進捗が遅れているという指摘に関しては、「世界のIBMをリードしている」(同)と、自信を示す。
10年1月、就任1年で世界に先駆けてクラウドの専任組織を立ち上げたほか、国内企業のグローバル化支援を強化する実践ソリューションを体系化した。ビッグデータに関しても、09年7月に高度な解析を経営に生かすアナリティクス事業を開始し、多くの案件を獲得。ただ、クラウド事業は全売上高に占める割合がまだ数%と少ない。アナリティクスに関しても、日本企業やパートナーに有用性を完全に理解させるまでには達していない。一方、SMBに関しては、ここ数年の地域体制と施策の改革で成長性は高いが、米本社の“欲求”を満たすまでには至っていない。
そのうえで、次の成長市場である国内企業のグローバル対応と国内の難題の両面に応えるとなると、「世界のIBMの人財、情報、知見など、経営資源を最大限投入する」(橋本社長)必要性は高まっていた、というのが今回の社長交代の本筋だろう。この社長交代を機に、日本IBMの大改革が始まるのは間違いない。

日本IBMの橋本孝之社長(左)とマーティン・イェッター次期社長。この先、この二巨頭体制が築かれる。
表層深層
4か月前の2011年12月の取材で、日本IBMの橋本孝之社長がキーワードに挙げたのは、「ビッグアジェンダ(大きな行動計画)」だ。「顧客も日本IBMも、大局的な視点で5年先のあるべき姿を考える」(橋本社長)と、業界知識豊富な人員で組織した戦略コンサルティング部門を設けて大企業を中心とした事業拡大を掲げていた。
今考えると、この時点で橋本社長は今回の人事を決めていた節がある。取締役会長職となった場合、「新経営体制を支援するほか、とくに顧客、パートナー、政府をはじめとする主要ステークホルダーとの関係強化に注力する」と表明。ゼネラルビジネスを切り開いた実績がある橋本社長は、社長を退いて、自身の得手の部分を生かす腹づもりだったようだ。
日本IBMの社内には、今回の社長交代に歓迎ムードが漂う。大企業向けやパートナーの領域で、橋本社長の力を活用できるからだ。緊急記者会見では「地域の日本IBMのパートナーのところには、これまで以上に多く足を運ぶ」と明言。自らの人脈を活用してトップ営業をかける構えだ。
マーティン・イェッター次期社長は、ルイス・ガースナー元CEOに仕え、4年間、ドイツのIBM社長を務めて同社を立て直した。日本IBMの社員に馴染みの薄い米本社の幹部だが、逆にいえば甘えを許さない体制が敷かれたことになる。5月15日の移行期間を経て、組織、人事、投資などの戦略を示す。大鉈が振るわれる可能性は高く、社員やパートナーがこれに適応できるかが、将来の日本IBMを決める。