量子技術の産業化が実現に近づきつつある。内閣府は2022年4月、「量子未来社会ビジョン」を発表。量子技術を社会経済システム全体に取り込むことや、1000万人が量子技術を利用する環境を国内で実現する方針などを掲げた。一方で、国内主要コンピューターメーカーは、量子コンピューターの実用化に向けた取り組みを強化。量子技術の活用が現実的になってきた。日本が世界をリードするために、何が必要なのか。量子技術を取り巻く動きを追った。
(取材・文/大河原克行 編集/藤岡 堯)
環境変化に合わせたビジョン
政府は20年1月に「量子技術イノベーション戦略」を発表している。量子に関する技術ロードマップや量子拠点整備などを打ち出し、量子技術の研究開発の道筋を示した。それから2年後の22年4月、内閣府は新たに「量子未来社会ビジョン」を公表した。
量子コンピューターを支える基盤技術の大幅な進化や、量子産業における国際競争の激化のほか、ウクライナ情勢の影響で量子技術を経済安全保障上の機微技術と位置づけるなど、量子技術を取り巻く環境が目まぐるしく変化しており、それを捉えた内容にしたという。
基本的な考え方として▽量子技術を社会経済システム全体に取り込み、従来型技術システムとの融合によって、日本の産業の成長機会の創出や社会課題の解決に取り組む▽最先端の量子技術の利活用促進▽量子技術を活用した新産業/スタートアップ企業の創出・活性化──を盛り込んだ。
内閣府の量子技術イノベーション会議委員であり、量子戦略見直し検討ワーキンググループの主査を務める伊藤公平・慶應義塾長は、「量子技術イノベーション戦略を見直すために議論をスタートさせたが、結果としては、量子技術イノベーション戦略を維持しながら、新たに量子未来社会ビジョンを発表し、両輪で量子技術に力を入れることになった」と話す。
さらに、伊藤塾長は「インターネットの普及がそうであったように、人口の10%が量子技術を利用すると、そこから爆発的に利用が広がる。これをベースに、Quantum Transformation(QX)が進み、50兆円規模の産業が創出されることになる」とも指摘する。
産業化へ民間も団結
量子技術を活用した日本における新たな産業育成に向けては、22年5月に発足した一般社団法人「量子技術による新産業創出協議会(Q-STAR)」の取り組みに注目が集まっている。量子技術の研究・開発に携わる企業だけでなく、ユーザー企業も加わっている点が特徴で、社団化時点で59社が参加。早期に国内企業100社の参画を目指す。
六つのワーキンググループと四つの部会活動を行っており、政策提言や標準化の提案、関連団体や、研究開発機関との連携、テストベッド連携に取り組んでいる。さらに、量子技術を産業に実装していくための設計図的な役割を担うリファレンスアーキテクチャー「QRAMI(Quantum Reference Architecture Model for Industrialization、キューラミ)」を提唱。これを日本発のグローバル標準として定着させる活動も進めていく。
Q-STARの代表理事を務める東芝の島田太郎社長兼CEOは、QXの時代に向けた備えが重要とした上で「材料やデバイス、計測技術、コンピュータ、通信、アプリケーションなど、産業創出に必要な量子技術や関連技術の発展につながる活動に幅広く取り組む必要がある。大切なのは量子技術を社会実装するところまで持っていくこと。産官学の連携によって、日本の量子産業の拡大を目指す」と訴える。
国内メーカーの開発意欲は高く
次に、日本の主要コンピューターメーカーの具体的な取り組みを見ていこう。
富士通は、16年に量子現象に着想を得たコンピューティング技術「デジタルアニーラ」を発表し、22年5月には第4世代に達した。クラウド契約数は国内131件、海外55件となっており、商用化で多くの実績を持つ。
量子ゲート方式については20年10月から、理化学研究所と共同で超伝導量子コンピューティングの実用化に向けた研究を開始。21年4月には、理研の量子コンピュータ研究センター内に、理研RQC-富士通連携センターを開設した。一部報道によると、23年度にも、この超伝導量子コンピューターの企業への提供を開始する予定だ。64量子ビットの性能で、実現すれば、国内企業で初の実用例となる。
24年度以降は、100量子ビット以上で、エラー訂正技術を実装する予定で、26年度以降には、1000量子ビット超を具体化する見通し。
日立製作所は13年にCMOSアニーリングマシンの開発に着手。15年には20kビットのCMOSアニーリングチップを独自開発。20年に事業化に乗り出し、数百人規模の勤務シフトを作成する勤務シフト最適化ソリューションの提供などを開始している。
量子ゲート方式ではシリコン量子コンピューターの開発に取り組んでおり、21年9月には、研究成果として「Q-CMOSプロセス」を発表。128個の量子ドットアレイと電子を制御するCMOS回路を同一チップに混載できるようにした。これにより、高精度制御と読み出し回路やシリコン量子ビットアレイの集積度を高めることができ、シリコン量子コンピューターの実現につながる大きな一歩としている。
東芝は16年に提案した量子分岐マシンを原点としたシミュレーテッド分岐マシン(SBM=Simulated Bifurcation Machine)を開発。すでに大規模な組み合わせ最適化問題を解く用途で利用されている。独自のシミュレーテッド分岐アルゴリズムを用いて、高速で組み合わせ最適化問題を解くことができるのが特徴で、21年2月には、第2世代シミュレーテッド分岐アルゴリズムを開発。FPGA(Field Programmable Gate Array)を実装したシミュレーテッド分岐マシンにより、金融取引の最適化や動画処理、複数ロボットの協調動作制御などをリアルタイムシステムとして活用する用途が見込まれている。
さらに、22年3月からは、量子インスパイアド最適化ソリューション「SQBM+」の提供を開始し、金融や創薬、遺伝子工学、物流、AIなどの領域で、複雑化する社会課題の解決に乗り出したところだ。
NECは、1999年に、量子コンピューターの基礎である「個体素子量子ビット」を世界で初めて実証。「量子コンピューティングの元祖はNECである」とする。現在では、量子アニーリングに特化。従来比で300倍の高速化を図ったベクトルアニーリングサービスを提供している。
23年には、開発中の量子コンピューティング素子を実用化する計画で、100倍の量子干渉時間の実現を目指しているという。また、量子暗号通信技術では、22年に重要基幹システム向けの長距離伝送技術を商用化。さらに、24年にはその廉価版となるCV-QKD既存ファイバー重畳技術を商用化する計画を明らかにしている。
日本の主要メーカーは積極的な取り組みを進めているが、大切なのは、技術投資や技術成果で先行するだけでなく、産業への実装という点でも先行し、それを大きく育て上げることができるかという点である。それが、量子技術分野における日本の存在感を高めるかぎになりそうだ。
量子コンピューターのおさらい
量子コンピューターは、動作原理の違いにより、量子ゲート方式とイジングマシン方式に分類される。
量子ゲート方式は計算量が極めて膨大で、高精度な計算や従来型のコンピューターでは高速処理が困難な計算などへの応用が期待される。ただ、計算途中でエラーが生じやすく、実用化には時間かがかるとみられている。
イジングマシン方式は、量子インスパイアド技術と位置づけられる。量子アニーリングやレーザーネットワークなどの領域があり、量子ゲート方式に先行して実用化されている。組み合わせ最適化問題の解決などに効果を発揮する。
ロードマップを拡充
米IBM
当然ながら、海外でも量子コンピューターの開発・産業化は大きく進んでいる。とりわけ、明確なロードマップを示しているのが、米IBMである。22年5月に発表した新たなロードマップでは、25年までにHeron(ヘロン)、Crossbill(クロスビル)、Flamingo(フラミンゴ)、Kookaburra(クーカブラ)という4種類の量子チップを、順次公開する計画を発表している。23年に公開する予定のHeronでは、モジュール化という概念を初めて採用。複数に分割したチップを組み合わせることで、性能を高めることができるという。
24年に公開するCrossbillは、モジュール化したチップを三つ並べて、短い配線でつなぎ、408量子ビットの構造を実現。Flamingoも24年に公開を予定し、三つの量子チップを、約1メートルの長い電線でつなぎ、量子状態のままチップ間を通信させるもので、1386量子ビット以上の性能が見込まれる。
そして、25年に公開予定のKookaburraは、Crossbillで培った複数のチップをまとめる技術と、Flamingoで培った長い距離を電線でつなぐ技術を組み合わせて、短冊のような量子ビット群を、電線で結ぶことで、4158量子ビット以上を実現する。これは、量子状態を維持するために必要な冷凍機が1メートル離れていても相互に接続でき、複数の量子チップを並列に動作させ、量子コンピューターを構成できるという大きな進歩をもたらす技術だ。
IBMは次代の量子コンピューターとして「IBM Quantum System Two」の動画を公開している。
将来の姿として、Kookaburraによって実現される技術を活用。冷凍機に入った複数の量子コンピューターと、複数の古典コンピューターがつながり、データセンターのような形で稼働する姿を描いている。プロトタイプは、23年に稼働する予定だという。