創薬領域におけるデジタル活用が加速している。8月には相次いで新事業が発表された。それぞれ治験計画、臨床データの収集、実開発の段階とITが利用される分野はさまざまで、クラウド基盤、生成AI、量子と幅広い先端技術が利用されている。日本は新薬の研究開発で海外に後れを取っているとも言われており、デジタルによる変革への機運は高まっている。
(取材・文/藤岡 堯)
富士通と米パラダイムヘルス
治験計画業務を効率化
富士通は8月26日、治験に特化したプラットフォームを提供する米国のスタートアップParadigm Health(パラダイムヘルス)との協業を発表した。富士通の医療データ利活用基盤「Healthy Living Platform」を通じて、医療機関から診療データやゲノムなどを収集した上で、AIサービス「Fujitsu Kozuchi」のLLM(大規模言語モデル)で加工し、パラダイムヘルスに提供する。パラダイムヘルスは提供されたデータをさらに分析し、基盤を利用する製薬会社が、治験を実施する医療機関や患者の分布を把握できるようにする。デジタル化によって、治験計画業務の効率化や期間短縮につなげる考えだ。
今回の協業は「ドラッグ・ロス」の解消を図る狙いがある。ドラッグ・ロスとは、海外ではすでに一般的に使われている治療薬にもかかわらず、日本では開発が行われていないために国内で使うことができない状態を指す。背景には日本独自の規制による薬価の低さに加え、治験対象の患者が複数の病院に分散しているため、治験計画に必要な症例の収集に時間やコストがかかり、新薬開発で企画される国際共同治験の対象地域から日本が外されるケースが増えていることがある。
厚生労働省の資料によると、2023年3月時点において、欧米では承認されているが、日本で未承認の医薬品は143品目に上り、このうち86品目は開発未着手となっている。医薬産業政策研究所の調査では、国際共同治験の実施数は近年増加傾向にあるものの、2000~21年の累計は2110件で、米国の1万1708件や、ドイツの7516件などと比べて少ない。富士通は協業による新サービスを通じて、患者がより素早く臨床試験に参加できるようにし、開発期間や費用の大幅な削減を図り、国際共同治験の増加につなげたい考えだ。新サービスは製薬会社だけでなく、医療機関側にとっても、患者が参加できる治験の情報を早期に入手できるなどのメリットがある。
米パラダイムヘルス ケント・トールケ CEO
パラダイムヘルスのケント・トールケCEOは同日の報道向け説明会で「日本の患者の健康と福祉を向上させる新たなソリューションを共同開発することを非常に嬉しく思う。世界で最も効率的な臨床試験のモデルの一つをつくり上げ、日本の患者が革新的な医薬品治療にアクセスできるようになることを望んでいる」と話した。
富士通はパラダイムヘルスとの協業のほか、製薬会社が作成する治験関連のドキュメントをLLMによって自動作成するサービスも投入する。富士通が有する治験領域での実績と法規制に関する知見をベースに、製薬会社の既存ドキュメントを法規制に準拠したデータ構造へと自動変換。治験特化型のLLMを使い、従来は熟練者の手でなされていた情報検索や要約、法規制に沿った表記や翻訳などの高度な作業を自動化する。製薬会社との実証実験では、ドキュメントの80%をLLMで自動作成できたとし、富士通の試算では、ドキュメント作成に要する期間を従来の50%まで削減できると見通す。
富士通 荒木達樹 Healthy Living Head
富士通は今回のソリューションで、30年度に200億円の売り上げを目指す。富士通ソーシャルソリューション事業本部の荒木達樹・Healthy Living Headは「創薬の研究と開発の間でのデータのやり取りを実現する第一歩と感じている。従来なかった新しい治療法が生まれることを期待したい」と意欲を見せた。
日本IBMなど3団体
対話型生成AIの運用開始
日本IBMは医薬基盤・健康・栄養研究所、大阪府立病院機構大阪国際がんセンターと24年3月から「生成AIを活用した患者還元型・臨床指向型の循環システム」(AI創薬プラットフォーム事業)の取り組みを進めている。創薬の成功率向上に欠かせない臨床情報の計画的な収集や大量のデータ解析に必要となるクラウドデータベースの構築に向け、患者への説明や同意の取得、問診による臨床データの収集といった膨大な作業を生成AIを活用して効率化するプロジェクトで、8月には同センターで乳がん患者に対する「対話型疾患説明生成AI」の実運用を開始した。
対話型疾患説明生成AIは乳腺・内分泌外科(乳腺)の外来初診患者向けのサービスで、AIアバターと生成AIチャットボットを組み合わせた双方向型の会話システムとなる。患者はWebブラウザーを通じて、診療前の自由なタイミングで疾患の説明動画を視聴したり、疑問点をキーボードや音声で入力して生成AIと対話形式で質問したりして、疾患と治療に対する知識を得られる。
システム上で疾患について説明するAIアバター
システムは「IBM watsonx」でAI基盤が構築されており、「IBM watsonx.ai」でサポートされている最新のLLMを活用し、同センターや学会などのデータで学習している。
例えば、乳房を温存する・切除するといった手術の方法、抗がん剤の効果、今後の生活に与える影響など、多くの患者が気になる点に関して、AIから説明を受けられる。現時点では300弱ほどの質問に対する回答を備えているという。
同センターでは、外来における疾患説明に毎回1時間以上を費やしていたが、システムの導入により30%ほどの効率化が期待されるとする。患者側も医師らに気兼ねすることなく、疑問を解消できる利点がある。8月26日の説明会で、同センター乳腺・内分泌外科の中山貴寛・主任部長は「自宅で家族と(質問を)聞くことで、不安の軽減につながる。今後はシステムを全国展開したい。適切な情報が伝わり、治療方針を納得していただいた上で治療に向かっていただくことを、全国でできるようになればいい」と語った。
プロジェクトの今後については、25年2月に▽来院前に入力したWeb問診結果を生成AIが解析し、医師が診察前に患者の状態を把握することで、より効果的な診療や副作用検知の早期化などを実現する「問診生成AI」▽看護カンファレンス内容の入力・まとめや、看護師と患者の電話応対記録の作成などを自動化し、看護の質向上や若手育成などにつなげる「看護音声入力生成AI」▽電子カルテの情報から医療文書に必要な項目を選んで、文書の作成を支援する「書類作成・サマリー作成」─の3システムの展開を予定する。
日本IBMの金子達哉・執行役員は、生成AIは患者の負担軽減に貢献できるとし「医療現場の実情を理解し、役立つAIサービスを開発できるよう努めたい」と抱負を述べた。
医薬基盤・健康・栄養研究所の中村祐輔・理事長は、創薬に必要な医療データ収集・分析の効率化だけでなく、業務改善よって患者との対話時間を増やすことにおいても生成AIの導入には意義があると指摘。「医療現場に温かさを取り戻す観点でも、生成AIの活用は重要になってくる」と強調した。
東芝デジタルソリューションズとRevorf
量子技術でたんぱく質分析
東芝デジタルソリューションズは8月26日、創薬スタートアップのRevorfと戦略提携契約を結んだと発表した。Revorfが有する生体情報の高度計算処理技術や創薬分野の専門家によるデータ分析力と、東芝デジタルソリューションズの量子インスパイアード最適化ソリューション「SQBM+」などの強みを組み合わせ、医薬品が効果を及ぼす「ターゲット」となりうるたんぱく質の種類を増やすためのITサービスを開発・提供する。
人間の体内には約2万種類のたんぱく質が存在しているとされ、このうちおよそ5000種類が何らかの病気と関連するとみられている。薬はこれらのたんぱく質に結合し、働きを抑える効果がある。薬を「かぎ」、たんぱく質側の結合部位を「かぎ穴」に例えることが多く、従来の創薬は、このかぎやかぎ穴の形状に着目して開発するアプローチが一般的だ。しかし、この手法は研究が進んだことで、ターゲットにできるたんぱく質が枯渇しつつあるという。
そこで注目を集めているのが「アロステリック創薬」と呼ばれる方法である。アロステリックは造語で、ギリシャ語で「異なる」を意味する「allos」と「形」を指す「stereos」に由来する。大まかに説明すれば、かぎ穴とは別の場所でかぎとは異なる物質が結合することで、たんぱく質の働きに影響を及ぼす「アロステリック効果」のメカニズムを利用する考え方だ。かぎ穴ではない場所の「アロステリック制御部位」に作用する薬をデザインし、たんぱく質の働きをコントロールする発想となる。
ただ、たんぱく質ごとに制御部位は変わるため、見つけるには多大な労力と時間のかかる作業が必要になっている。両社はこれまでにこの制御部位を予測する量子計算アルゴリズムを共同で開発しており、その有用性が確認できたことから事業化に乗り出した。具体的には製薬会社への支援や共同研究のほか、Revorf自身による創薬も開始する。
Revorf 末田伸一 代表取締役
同日の会見で、Revorfの末田伸一・代表取締役は「アロステリック製薬は、治療法がまだ存在せず、投薬ターゲットが見つかっていない疾患に対して大きな可能性を秘めている。ついに創薬のインフラとしての基礎技術が構築できた」とアピール。東芝デジタルソリューションズICTソリューション事業部データ事業推進部の岩崎元一・新規事業開発担当シニアエキスパートは「創薬はITによって加速できる。そこに量子が加わることで、さらにスピードアップが目指せる」と展望した。
東芝デジタルソリューションズ 岩崎元一 シニアエキスパート