少子高齢化による労働人口の減少や働く個人の価値観が多様化し、人材の確保や定着が喫緊の課題となっている。このため企業には、従業員の健康や幸福度、職場への満足度といった「ウェルビーイング」を高める経営がいっそう求められる時代となった。ウェルビーイング経営を推進するためのツールとしてさまざまなITソリューションが提案されているが、有効に活用するには、年に1回の健康診断やストレスチェックなどとは異なり、モチベーションや働きがいなどを高頻度で定点観測するとともに、環境改善を進める手法が求められる。日本主導で国際規格も定まり、本格的な社会実装に向けて機運が高まりつつある組織のウェルビーイング向上を、ITはどのように支援すべきか。
(取材・文/南雲亮平)
大塚商会
やりっぱなしにしないためITによる計測が必要
大塚商会は、ICTの活用も含めた経営課題の解決を支援する「トータルソリューショングループ」を組織し、2013年から「経営支援サービス」を提供している。
営業本部トータルソリューショングループTSM課経営支援サービスチームの戸塚直子・課長代理は、「企業経営では、人材の定着や企業理念の浸透など、ITソリューションの導入だけでは解決が難しい課題が多くある」と指摘する。特に中小企業では、経営者が抱える財務、組織、人事などの課題に対し、第三者的な専門家の視点が必要とされることから、同サービスの提供を開始したという。
大塚商会
戸塚直子 課長代理
同社の経営支援サービスの中では、顧客企業のミッションやビジョン、組織文化の浸透をサポートすることで、従業員がいきいきと働ける組織づくりを目指すメニューを用意している。同社のプラットフォームに登録した中小企業診断士がチームを組み、無償の企業診断サービスなどを通じて、社長の思いと現場の不一致を洗い出し、人材育成や、チームビルディングを支援する。
大塚商会は、日立製作所の研究所で開発されたエンゲージメントサーベイ(調査)技術を提供するハピネスプラネットと23年に資本業務提携を締結しており、同社の「ハピネスソリューション」を経営支援サービスの中で活用している。月に1回の短いアンケート結果を元に、組織の状態を「心理的安全性」と「心の資本」の2軸でマッピングする。マネージャー層が組織の状態を定点観測することに焦点を当てており、変化があった際に原因を深掘りし、対策を立てるためのアラートとして機能する。結果をもとに、中小企業診断士が生成AIを活用して顧客への提案のベース情報を準備することもできる。
戸塚課長代理は、ウェルビーイング向上に向けてITを活用する意義を「(施策を)『やりっぱなし』にしないため」と説明する。健康や会社に対する満足度を増進するための取り組みは、制度の整備やイベントを実施すること自体が目的化し、期待する成果が得られたのか検証がおろそかになることが少なくない。ツールを用いて「エンゲージメント向上のための施策を実施する前後にサーベイを行えば、効果測定としても役立つ」(戸塚課長代理)。
一方で、「経営基盤の整備が、ウェルビーイング施策の前提となる」(戸塚課長代理)とし、組織文化の確立やマネジメント方法が不安定な段階でサーベイを実施しても、その価値は薄れてしまうと指摘する。組織の改善に向けた具体策を提示できるアドバイザーがいない状態でツールだけを導入した場合、ウェルビーイング向上を実現するのは難しいことに注意が必要だ。
ドリームホップ
ストレスチェックの一歩先 AIで具体策を提案
ピー・シー・エーグループのドリームホップは、約10年にわたりストレスチェック事業を展開している。23年からは、ウェルビーイングに関するソリューションの一つとして、パルスサーベイ「Res-Q」を提供している。武蔵野大学でウェルビーイング学部の学部長を務める前野隆司・教授の研究室と産学連携したことが契機となった。
Res-Qは、社会貢献や承認の実感など、働く人の幸福に焦点を当てており、従業員に毎月5項目への10段階評価と自由記述形式のアンケートを実施する。質問は「仕事が面白いか」「この会社でどれくらい働きたいか」など、モチベーションや働きがいといった部分に強く関連する項目に絞って構成。これにより、従業員の仕事におけるメンタルの変化を定点観測し、リスクの早期発見や適切なタイミングでの介入を可能にする。特別な施策の効果検証など、必要に応じて質問を追加することもできる。
ドリームホップ
関口渓人 氏
分析結果に基づいたAIによるアドバイス機能も特徴だ。サーベイ結果を分析し、人事や管理職に対して「1on1で何を質問すべきか」「重点的にフォローすべき対象者」など、具体的な対応策をAIが提案する。HRtech事業本部運用支援グループの関口渓人氏は、「長くストレスチェック事業を展開する中で得た、結果の見せ方や分析力、結果の利活用に関するノウハウが生きている」と強調する。
AIソリューションのほか、メンタルヘルス・人事労務事業で経験を積んだ担当者がアドバイスを行う伴走型コンサルティングも提供している。改善策の実行と検証を繰り返し、組織改革のサイクルを支援する。
基盤となるデータを継続的に収集するためには、従業員がサーベイに回答する意欲を保つ必要がある。そのためには、会社が結果を適切に活用し、フィードバックすることで、従業員にメリット(改善)があることを示すことが重要となるという。
同社は、主に人事労務領域をサポートする企業向けに、パートナープログラムを展開している。提携形態は、販売代理店、相互紹介、OEMの3通り。Res-Qのほか、ストレスチェックサービス「ORIZIN」や、研修プログラム「Humany」なども対象としている。
産業技術総合研究所
日本発の提案でウェルビーイングがISO規格に
ウェルビーイングは概念が広範なため、企業における具体的な施策としては、福利厚生の追加や単発的なイベントの開催に終始しがちで、効果測定や継続的な改善が難しいという課題を抱えていた。この課題を解決するための指針となるのが、24年11月に発行された国際規格ISO 25554:2024「高齢化社会ー地域や企業等におけるウェルビーイング推進のためのガイドライン」だ。
策定に向けた議論の中で、日本は高齢社会の“課題先進国”として中心的な役割を担った。経済産業省は、ヘルスケア産業の成長を後押しするため、国内で広がりつつある健康経営の国際展開を推進しており、ウェルビーイング推進方法の国際規格化もその流れに沿うものだ。ISOのワーキンググループへは、健康経営の研究・普及で実績のある社会的健康戦略研究所と、規格開発の知見がある日本規格協会および産業技術総合研究所(産総研)が連携して提案を行った。
ISO 25554は、リーダーを決めたうえで、個人や組織のウェルビーイングにおける目標を明確にし、達成に向けて改善する、というPDCAサイクルを回すためのフレームワークだ。これまでは「何を測り、どう推進すれば良いのか」という普遍的な枠組みが整っていなかった。
ただ、この規格では「ウェルビーイングとは何か」の定義はあえて定めていない。幸せのかたちが人それぞれであるように、文化や背景によって考え方が変わるためだ。例えば、人生において仕事を重視する従業員が、残業してでもやり遂げたいプロジェクトがある場合、「心身共に健全な残業ができているか」を検証し、必要に応じて改善することが求められる。このようにISO 25554では、各組織が自らのミッションや文化に応じた「良い状態」をそれぞれ定義し、関係者間で合意形成をすることから始めるよう促している。
産業技術総合研究所
佐藤 洋 副領域長
ワーキンググループの議長を務めた産総研情報・人間工学領域の佐藤洋・副領域長は、このフレームワークの活用にあたり、「目標が動くことはないが、評価項目や計測方法を見直すケースは考えられる。設計が不完全でもとにかく始めてみることを許容し、後から調整できる余白を残しておく」ことが大切であると話す。
特に重要となるのが、活動が組織のゴールに本当に貢献しているかを継続的に計測し、分析・検証する「評価」の仕組みだ。形式的な指標を満たすことで“認証バッジ”を取得するような活動ではなく、本質的な改善に焦点を絞る必要があるためだ。
定点観測の自動化や、大量のデータを分析するといった工程は、ITの得意分野だ。ITソリューションベンダーは、ISO 25554のフレームワークを参照することで、アンケートやセンシングによるデータの継続的な測定や、意思決定や合意形成を支援するダッシュボード作成の自動化といったサービスを設計できる。佐藤副領域長は「ただ測定するだけではなく、結果として出てきた数字がウェルビーイングの達成に向けてどのような意味を持つのか、といった部分まで埋めるコンサルティングサービスなどと組み合わせることで、ウェルビーイング支援ソリューションの需要はより広がる」との見方を示す。
標準化された手法を用いることにより、企業は主観や勘に頼るのではなく、数字に基づいてクリティカルな要因を絞り込み、経営指標に直結する効率的なウェルビーイング経営を実現することができる。ISO 25554は、黎明期にあるウェルビーイング経営の形骸化を回避し、持続可能な活動へと導く指針となる。
従業員の健康や満足度が競争力強化の必須条件に
ウェルビーイングの向上は、単なる時代への対応ではなく、経営戦略の根幹に関わる施策になりつつある。従業員の定着率向上や離職率低下というメリットに加え、「従業員がパフォーマンスを十分に発揮できるようになる、あるいは新しいことを考えられる」(ドリームホップ・関口氏)ようになり、新規事業の開発や業務改善の提案が増えるなど、組織の成長につながる効果も期待できる。さらに、「従業員が仕事に前向きに取り組めている組織は、業績も比例して向上する」(大塚商会・戸塚課長代理)という実績もある。
労働人口の減少により、従業員一人当たりの生産性向上も求められる中、企業がウェルビーイングに取り組むことは、成長し続けるための条件であり、競争力強化において不可欠な要素と言える。