企業経営でデータ活用の機運が高まる中、「秘密計算技術」を実用化する動きが広がっている。機密を含む情報も保護した状態のまま計算処理する技術で、プライバシーに配慮できるとして医療分野で実証が進む。一般企業でも、企業間で情報を共有し、開発に役立てる取り組みもある。技術開発するプレーヤーはスタートアップからグローバルベンダーまでひしめき合っている。ビジネスチャンスはどこにあるのか。現在地を探った。
(取材・文/春菜孝明)
一長一短の三つの技術
秘密計算は、個人のプライバシーデータや組織の機密データを保護するプライバシー強化技術(Privacy Enhancing Technologies、PETs)の一種。データ自体を分散や暗号化したり、処理を秘匿化したりして、統計演算を行うことができる。利用者は計算結果だけを得るため、互いに情報を開示できない競合企業同士や、プライバシー保護が必要な業界でデータを活用する際、学習データを増やすのに有用とされている。
NTTドコモビジネス
櫻井陽一 部長
ビジネスを推進する上でデータ活用の重要性が高まる一方、法的規制や倫理的な配慮が求められている。実用化に取り組むNTTドコモビジネスの櫻井陽一・ビジネスソリューション本部スマートワールドビジネス部スマートヘルスケア推進室担当部長は「データの保護と利活用の両立を可能にする技術だ」と説明し、「活用の機運が高まっている」と実感を込める。
三つの技術が主流になっている。情報を複数の断片データに分けて保管する秘密分散、データを暗号化したまま演算する準同型暗号、隔離された環境で計算処理を実行するコンフィデンシャル(機密)コンピューティングだ。秘密分散は分散させたデータを別々のサーバー上で計算し、分散計算の結果を集めて本来の計算結果を得る。準同型暗号は、公開鍵暗号の技術などにも用いられる「準同型性」という数学的理論に基づき、暗号化された状態でも平文と同じ計算を可能にする暗号技術。コンフィデンシャルコンピューティングは、CPUやGPUといったハードウェア上に設ける隔離空間で計算を行う方式で、「信頼できる実行環境(TEE)」とも言われる。TEE上での計算中は暗号を解いているが、システム管理者やインフラ事業者も見ることができない仕組みになっている。
それぞれの技術に一長一短がある。秘密分散は複数の拠点が必要になる。準同型暗号は暗号化状態で計算することで秘匿性は高まるが、計算負荷が大きい。コンフィデンシャルコンピューティングは平文で処理するため計算方法の幅が広く、高速な処理を期待できる一方、ハードウェアの信頼性を保つ必要がある。
医療分野や素材開発で実績
NTTドコモビジネスでは2021年、秘密計算技術を生かしたクラウドサービス「析秘」を発表した。秘密分散を中心に、各種の技術を応用した複数のサービスを提供している。NTTグループでは研究開発に長年取り組んでおり、秘密分散を利用した秘密計算のISO規格にはNTT(持ち株会社)の研究所が開発した独自技術が採用されている。
医療分野で実証を積む。一つは、医療情報の活用だ。罹患者が少ない病気の場合、症例が乏しく、治療法の開発や医療技術の進歩が進みにくい。一方で複数の医療機関同士で生データを共有することは、個人情報保護の観点などから慎重になっていた。そこで秘密計算によって、電子カルテのデータや、DPC(Diagnosis Procedure Combination、診断群分類)データと呼ばれる診療報酬の評価に用いるデータなどを、安全に連携・解析できる環境を整備する取り組みが進んだ。経過の予測や異変の兆候の予知に役立てている。
また、患者アンケートの収集にも秘密計算が活用されている。回答者個人が特定できないかたちで医師に集計結果のみ共有するため、患者は予後の過ごし方について率直に答えられるという。
パートナー連携で事業化した例もある。医療データ事業のTXP Medicalと24年に資本業務提携を締結。医療機関の臨床データを析秘で処理し、TXP Medicalで出力結果の分析を加えて製薬会社などに提供するサービスの開発にこぎ着けた。
EAGLYS
太田博士 執行役員
スタートアップも秘密計算市場をけん引している。16年創業のEAGLYS(イーグリス)は、コンフィデンシャルコンピューティングと準同型暗号を使ったサービスを開発している。執行役員の太田博士・セールス&マーケティングVPによると、グローバルを含めて秘密計算の実装トレンドは、計算が高速なことからコンフィデンシャルコンピューティングが選ばれているという。一方でEAGLYSは準同型暗号の高速化に向け、キオクシアからカーブアウトしたEmotionXとの共同開発にも取り組む。
EAGLYSのAIアプリケーション「EAGLYS ALCHEMISTA」はコンフィデンシャルコンピューティングが中核の技術だ。企業間のデータをTEEで連携し、生成AIを使って分析している。三菱ケミカルと大塚化学が新しい材料を開発する際、機密にあたる配合条件や評価結果のデータをALCHEMISTA上に出し合い、サンプル作成に成功した。通常は2~3年かかる開発期間が1年足らずで済んだ。
材料開発の現場について太田執行役員は、サプライヤーとバイヤーの関係でも定量データは社外秘であり、修正のオーダーに対して担当者の感覚に頼らざるを得ない場合が多いと解説。ALCHEMISTAを活用することで「修正の方向性を合わせやすくなっている。当事者から、望んでいたかたちを実現できたとの声があった」と振り返る。
アテステーションと呼ばれる、隔離環境で行われるプログラムが改ざんされていないことを証明する仕組みも付随している。サプライヤーとバイヤーの立場に応じて異なった角度から結果を提示するといったロジックも備える。暗号鍵に加え、多角的な情報漏えい防止の機能が働いている。
材料開発での成功事例を踏まえ、太田執行役員はユーザー起点での展開を期待する。「あらゆるデータの安全な活用と、価値への変換を成し遂げたい」と決意を示す。
米Fortanix(フォータニクス)はコンフィデンシャルコンピューティング技術を活用したデータセキュリティー製品「Data Security Manager(DSM)」を打ち出す。パトリック・コンテ・CRO(最高収益責任者)によると、グローバルエンタープライズの約200社が採用しているという。
DSMは、データ保護に必要な暗号技術をワンストップで提供する。ハイパースケーラーなどのクラウドサービスやデータベースに対応。暗号鍵の生成や管理を機能に盛り込み、隔離環境を担保する。アプライアンスと仮想マシン、SaaSで提供しており、海外では金融や政府機関で機密性の高い顧客情報などの保護に需要がある。
パートナーの注目度高まる
NTTドコモビジネスでは「グループ内外から声をかけてもらう機会が増えている」(櫻井部長)と秘密計算のニーズに手応えを示す。AIの普及によって、データ整備が進んでいることが追い風になっている。
25年7月には、地理的に離れた3カ所のサーバーにデータを保存する「析秘STORAGE」、コンフィデンシャルコンピューティング技術を使った「析秘TEE」の提供を始めた。ビジネス案件への展開について、秘密分散のみでは「時期尚早」(同)だったが、STORAGEでは可用性を高める分散保管も組み合わせることで、バックアップの需要に対応。さらに、表形式の構造化データのみだった秘密分散に対し、TEEでは画像やテキストなどの非構造化データも扱えるようになった。ユーザー側で作成する任意のアルゴリズムで演算でき、処理の幅が広がった。
米Fortanixのパトリック・コンテCRO(右)とアヌージ・ジャイスワールCPO
櫻井部長は「ユーザーが目的に合わせてPETsの技術を選べるようにすることが重要」と意義を強調する。
フォータニクスは日立ソリューションズ、NTTデータ先端技術とそれぞれ販売代理店契約を結んでいる。コンテCROは「ナレッジを提供しながら一緒に開拓したい」と語る。
EAGLYSの太田執行役員が「挑戦的な領域」とするのが、TEEの中で汎用的な大規模言語モデル(LLM)を稼働させる取り組みだ。従来のAI利用では、提供元がデータを閲覧しないという保証は主に規約上の文言にとどまっていた。コンフィデンシャルコンピューティングでは、管理者を含む第三者による不当なアクセスや改ざんがないことをシステム的に証明できる。同社ではLLMのガードレールやナレッジグラフ、RAG(検索拡張生成)なども手掛けることで、エンタープライズで実装フェーズに進んでいるという。
フォータニクスのアヌージ・ジャイスワール・CPO(最高製品責任者)も、推論などのAIワークロードについて暗号化によってデータ保護をサポートすると強調。米NVIDIA(エヌビディア)とのパートナーシップを通じて「コンフィデンシャルAI」を確立すると意気込んだ。
官民で取り組み推進
国際連合やOECDなどの国際機関ではPETsに関するガイドラインや文書が発行され、技術活用に向けた制度整備が進みつつある。国内ではデジタル庁が「デジタル社会の実現に向けた重点計画」でPETsを取り入れることに言及した。内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム第3期では研究開発テーマの一つに秘密計算があり、医療分野で事例を構築している。社会実装に向けて官民が取り組みを進めている。
NTTドコモビジネスの櫻井部長はこうした制度面の整備に加え、「技術による便益を実務者が正しく理解し、経営層を納得させて意思決定につなげる一連のプロセスを確立する必要がある」と指摘する。提供コストに関しては「ビジネスにおけるバジェットに対して、私たちが提供する価格がかみ合えば普及してくるだろう」と展望した。