イーロン・マスク氏が繰り返し語る未来がある。AIとロボティクスが生産性を高め、仕事は“趣味のようなもの”になり、誰もが物質的に豊かな生活を送れる――彼はそれを「UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)」ではなく「UHI(ユニバーサル・ハイ・インカム)」と呼ぶ。最低限の保障ではなく、AI生産性の果実を全員が受け取る社会だ。
だが、この構想を日本に当てはめると、話は簡単ではない。
まず雇用の構造から見ていく。米ハーバード・ビジネス・スクールが2024年末に発表した研究結果によると、生成AIの登場により、自動化されやすい職種では求人が17%減少する一方、AIにより人間の能力の拡張が期待できる職種では逆に22%増加している。雇用は消えるのではなく、二極化が進んでいるのだ。問題は、日本型の正社員雇用では担当業務がAIに代替されても配置転換で対応するため、当事者に切迫した危機感が生まれにくいという構造にある。変化が静かに進む分、気付いたときには取り返しがつかない事態が起きやすい。
次に制度の問題だ。日本は25年にAI推進法を公布したが、その性格は基本法的なものであり、企業への具体的な義務はほぼ定められていない。EUが「AI Act」で企業に義務を課しているのとは対照的だ。AI戦略の議論においても、技術・法律の専門家が中心で、労働組合や労働経済学の専門家の参画が著しく限定的との指摘がある。法整備が技術の速度に追いつかないまま変化だけが加速する、それが今の日本の現実だ。
そして人材投資の問題がある。日本の民間企業の人的資本投資は、GDP比で先進国中ほぼ最下位の水準にある。AIが労働時間を削減しても、その余力を高付加価値な業務へ転換できる人材が育っていなければ、生産性の恩恵は海外企業に吸収されるだけだ。リスキリングの議論は進んでいるが、現場への浸透はまだ始まったばかりだ。
UHIが現実に近づく世界で日本はどこに立っているだろうか。AIが富を生み出す構造に乗れた国と企業は繁栄し、旧来の雇用モデルにしがみついた組織は静かに空洞化していく。マスク氏は「誰でも豊かになれる」と語るが、その恩恵は自動的には訪れない。AIの生産性を誰が設計し、誰が意思決定し、誰が価値に変えるか――その問いに答えられる人材と組織だけが、UHIの果実を受け取れることになる。
事業構想大学院大学 教授 渡邊信彦

渡邊 信彦(わたなべ のぶひこ)
1968年生まれ。電通国際情報サービスにてネットバンキング、オンライントレーディングシステムの構築に多数携わる。2006年、同社執行役員就任。経営企画室長を経て11年、オープンイノベーション研究所設立、所長就任。現在は、Psychic VR Lab 取締役COO、事業構想大学院大学特任教授、地方創生音楽プロジェクトone+nation Founderなどを務める。